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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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乳の日
 幼少の頃、母のオッパイを弟に独占されて、眠る前にいつもスネていた。どういうわけか、代わりにオヤジの乳首をさわらされていたのをかすかに思い出した。父の乳なんて気持ち悪くてシャレにもなんないけど。

 やっぱりそれでは物足りなかったのだろう。いつのまにか僕は、ウルトラの母のソフビを握らされて、それの胸をさわりながらいつも眠っていた。だから今でもウルトラの母を見ると気恥ずかしさが甦るのである。ちなみに僕は乳フェチではない。まあご存知だろうけども……。

 乳房というのは男にとって重要なんだとよく感じる。彼女のペチャパイを嘆いていた友人は、浮気で巨乳女にハマってから二度とペチャパイ女の元には戻らんかった。物足りなかったのであろう……。

 どんなことでもないよりもある方がいいに決まってる。被害以外は。ありすぎるのは問題だけども……。父の乳の思い出も、ないよりはいいのかもしれない。

 先週、たまたまいろんなことを思い出したので、この前の日曜、特別養護老人ホームに居るオヤジに訊いてみた。



僕「モグラ獲りに連れて行ったやろう? あれ、なんで獲ったのに見せてくれへんかったんや?」
オ「庭の砂のトコに飼おうと思うたんや」

僕「スズメバチの巣、しょっちゅう獲ってきてたやろ? あれどうやって獲ったんや?」
オ「あいつら(スズメバチ)黒いのに反応するさかいに髪の毛を白いヘルメットで隠して殺虫剤で一発や。スズメバチの巣は穴が1つやさかいなぁ」

僕「顔にネットとか防具かぶらんかったんかいな?」
オ「そうや。白いヘルメットと殺虫剤だけや」

僕「ザリガニ100匹ぐらい獲ったことあるやろ? あれなんでや?」
オ「わからん」

僕「カブトムシの幼虫、80匹以上獲って、獲り過ぎて近所に配ったなぁ」
オ「牛の糞が置いたるトコにはおるって知ってたんや」

僕「そういや団地に住んでた時、庭でウサギいっぱい飼うてて、野良犬に襲われて逃げたり殺されたりしたやろ? その後になんで物置にウサギの毛皮を吊るしてたんや?」
オ「なんか役に立つかなぁ思うて」

僕「まさか死んだウサギ食ってへんやろな?」
オ「あれは肉屋に持って行ってさばいてもろうた」

僕「そんならワシもウサギ食うたんか?」
オ「たぶん食べてるはずや」

僕「……………(沈黙)」



そんなオヤジの誕生日が今日だ。
あんたの変人の血は立派に受け継いでるので、もう死んでかまへんよ。
乳首の感触は憶えといてやるから。


2006年○月×日21:23
西原理恵子さん
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二十歳の頃、西原さんと文通みたいなことをしてたことがある。
キッカケはヤングサンデーに連載していた『ちくろ幼稚園』で、
「ファンレターください。必ず返事書きます」と書いてあったから。

文面に「東京に来い!」って書いてあったけど、僕は行かなかった。
なぜなら麻雀のカモにされるのをわかっていたから。
しかも麻雀できないし嫌いだし。

今から思うと、無理にでも東京へ進出しておけばよかった。
たぶん深く仲良くなれたと思う。
西原さんの文章は毎回面白くて、
頼んでもいないのにサイン色紙とかも送ってくれた。
その頃はまだメディアに顔を出してなかった西原さんだったけど、
ブスであろうがなかろうが、僕が東京に行ったらたぶん付き合っちゃうだろうなぁ、と勝手に思っていた。

今は遠い存在になったのが悔やまれるけど、
活躍しているのを見かけるととても嬉しい。
去年、西原さん原作の映画『ぼくんち』を観に行った。
観客は少なかったけど、いい映画だった。
音楽を担当していたのが知人の友人である
「はじめにきよし」だったのは何かの縁かなぁ、と思った。

本当は「西原理恵子コミュニティ」に入りたいのだけれど、
ちょっと鬱陶しいリアルの知人が入っていたので断念した。


2004年11月19日03:36
命日
 何度目なのかちゃんと憶えてないけど、記憶が確かならば、僕が22の時に死んだのでたぶん14回目の母の命日。4月6日が命日だったかさえ実は定かではない。僕が憶えているのは桜咲く春の出来事だったということ。僕は記念日とか定められた日などどうでもいいタイプの人間ですから。

 あの日の今頃は、あんなに突然に別れが来るとは思わなかった。いや、別れが来ることさえ信じてなかった。僕は母が入院を希望した倉敷の病院の近所で、平屋の家を借りて、あのまま一生倉敷で母の側にいながら暮らそうと決心していた。担当医が言った「もって春までですね」の時期を迎えることができた。それだけで僕はもう母という存在が絶え間なく続くものだとさえ思っていた。

 病院の朝ご飯のおかずは確かメザシだった。いや、あれは僕は家で炙って持って行ったものを母が食べたような気がする。朝食を平らげ、末期癌にも関わらず一人でトイレに行っていた気丈な母。息子に下の世話をさせたくなかったのだろう。その時は既に父の下の世話も経験済みだったのだが。

 容態が急変した。最期の最期になって、座薬を入れてくれ、と頼まれた。僕は初めて座薬を入れてあげた。おしめをしてくれ、と言われたので看護婦さんに頼んだ。そのうち看護婦さんが身内に電話をするように即した。公衆電話で小銭を積み上げながら、各所に電話をしたがなかなか繋がらずに困った。そのうち看護婦さんが、私が電話を代わるからお母さんのそばへ、と言ってくれた。

 手を握りしめた。握りしめた手の甲に、大粒の涙をたくさん落とした。意識朦朧としていた母が、その手の甲に落ちた涙を不思議そうに見つめていた。病の母にだけは見せまいとしてた涙をそこで初めてこぼした。もう母の声はほとんど聞き取れなかった。ただ、うわ言のように「ゆるしてくれ」と何度も言っていた。先に逝く自分を、決して幸福ではなかった家庭を、ゆるしてくれと言いたかったんだろう。

 やがて声も出なくなった口元は「たのんだでたのんだで」と動いているように見えた。一人で何もできない弟のことを、たのんだでと言いたかったんだろう。そして昏睡。僕にはもう心電図の針の動きが止まるのを待つしかなかった。心臓マッサージを施してから瞳孔を診た担当医が言った。「御愁傷様です」と。

 医師にお辞儀をして「ありがとうございました」と言った。いつも世話してくれた看護婦さんが亡骸を浄めてくださっている間、僕は病室の窓からぼんやりと東の空を眺めた。夕方だったのに、東の空の雲の隙間から光が降り注いでいた。ふと気づくと、同じ病室の全身が麻痺して動けない4、50代の鈴木さんが泣いていた。事の一部始終を聞いていらっしゃたようだ。完全に泣き止んでた僕は、なぜか鈴木さんを励ました。「ありがとうございました。どうかもう泣かないでください。どうかお元気で」と言って固く握手した。

 臨終に間に合わなかった弟が、階段の手すりに掴まって泣いていた。僕は、肩をポンと叩いた。「今、死に化粧してもらってるから、1階の安置室に行っておいで」。



 あれからどれくらい母を忘れられぬ日々が続いたろう。朝起きてすぐ、もうこの世に母がいないと絶望する日々が何度続いたろう。弟を結局、守ってやれる事はできず僕は今に至る。愛した人を忘れなかった日はありません、と人はよく言うが、僕は忘れる日々の方が多くなった。ただ、あの時に母の手を握りながら誓ったことだけは忘れない。

 お母さん。いつまでも親不孝な息子でごめんなさい。僕はあなたの息子で幸せでした。あなたの最期を見届ける事ができて幸せでした。
はぢめてのまんびき
僕の初めての万引きが幼稚園児の時だった…、
と言ったら驚かれる方もいらっしゃるだろう。
悪い子ではなかった。
むしろ泣き虫で誰からも大人しいと言われる子だった。

その頃は『およげ!たいやきくん』ブームだった。
僕は駄菓子屋に行っては、たいやきくんカードを集めていた。
その僕を誘惑したのは、所謂くじ引き。
当たりが出れば、たいやきくんカードケースがもらえたのだ。
僕はおばあちゃんに小遣いをもらうたびに駄菓子屋に行き、
くじ引きに挑戦した。もうくじ引きしかしなくなっていた。
店の他の客の子らは、僕の目の前で次々と当たりを引いていった。
何度やっても当たらないのは僕だけ…。
くやしくてくやしくて駄菓子屋からの帰り道はいつも半ベソかいていた。
くそぅ! 駄菓子屋のオッサン、ボロ儲けしやがって!

ある日、とうとう作戦は決行された。
決行する前はドキドキした。
とりあえず当たりを引くまでくじ引きに挑戦した。
が、やっぱりダメだった。
そして作戦を決行したくなかったのに決行せねばならぬことになる。
駄菓子屋のオッサンが他の客の子の相手をしている時に、
むき出しに置いてある当たりのたいやきくんカードケースを
ひとつだけスッと持ち去ったのだ。
服の中に入れたまま小走りで帰った。

夢にまで見たたいやきくんのカードケース。
それが手元にあるだけで僕は満足だった。
だけど、満足したのはその時だけ。
それから僕は長い間、苦しめられることになる。

「それどうしたの?」って弟らに聞かれるたびに、
「当たった」と嘘をつかねばならなかった。
うまく嘘をつけない僕は、いつしか戸棚にカードケースを封印した。
でも戸棚を開けるたびにチラリと見えるカードケース。
そして、いつものように通う駄菓子屋のオッサンの客に対する真剣な対応。
僕はオッサンがかわいそうに思えてきて仕方がなかった。

それから小学生になった4年後、ある大作戦が決行される。

封印していたカードケースを服の中にしまうと、
僕は一直線で駄菓子屋に向かった。
いつものように繁盛していた。
僕は何かひとつ買い物をして、オッサンの様子をうかがっていた。
オッサンが目を放したスキを見て、店の死角になった部分に
服から取り出したカードケースをポンと置いて帰ったのだ。

店から離れると遠くからオッサンの声が聞こえた。
「これ落としたの誰~!?」
僕はその声を確認すると一目散に小走りで帰った。
ニヤリと笑いながら。

僕は4年間の緊張と自責の念から解放された。
二度とそこの駄菓子屋には行かなくなってしまったけれど。
バールのようなもの
「バールのようなもの」って、犯罪ニュースでよく聞く。
僕は「ようなもの」じゃなくて、
本当にバールを使う仕事をしていたことがある。

もう何年前になるのか忘れた。
営業職を辞めて、母親の看護も終わって、
毎日のように琵琶湖で釣りをしてブラブラしていた頃の話。

堺市に住む女友達のところに遊びに行ったら、
そこのオヤジに「仕事しろ」って言われ、
半強制的に仕事を手伝うハメになった。
しかも家に帰るのは遠すぎるので住み込みだ。

職業名を正式にいうと『型枠解体工』。通称、バラシ屋。
ニッカポッカと地下足袋を履いて、
バールや金づちを振り回して汗だくになって働いた。

『○○組』という、名前に『組』が付くところで働いたのは、
後にも先にもあの時だけだろう。

仲間の人らは前科者ばかりで、車で仕事場に移動する時は、
競馬かオメコの話ばかりが飛び交っていた。
ギャンブルはしないし、当時は純朴だった僕にはある意味過酷。

さすがに女友達の家にいつまでも居候するわけにはいかないので、
不動産屋を紹介されて、マンションを借りることになった。

どこからみてもヤクザもんの不動産屋は、
指にたくさんの宝石をしていた。
そしてその指で僕の職業欄に「工員」と書いた。

僕は道を外れてしまったとその時になって後悔した。
肉体労働を卑下するつもりは毛頭ない。

仕事には大きく分けて2種類あると思っている。
1つは、人のためになる仕事。
もう1つは、人を楽しませる仕事。

人を楽しませるクリエイティブなことを
目指してきた僕にはショックだった。

当時はイヤでイヤでしょうがなかったけど、
今では肉体労働こそが真っ当な仕事じゃないのかと思っている。
ということは今、僕は真っ当から外れているわけだが…。

腹筋が見事に割れて、鏡の前でポージングしていたあの頃が懐かしい。
金づるだった雑誌の連載が終わった今、いろんな仕事を考え始めている。


2005年04月05日21:25

そしてナイフを持って立ってた
彼はいつからか「隠居」と呼ばれた。
鈍い動作、ひどい猫背、ガリガリに痩せ細った体、そして口を聞かない。

隠居の弁当は毎日同じ内容だった。
卵焼き、輪切りのキュウリ、白ごはん。
見事な三色弁当だった。

それについて不良たちがひやかした。
不良たちもどうかと思ったが、
これを作る母親はいったい何を考えているのだろうかと怒りを感じた。

ある昼食の時間、隠居が
「今日は自分で(昼食を)作ってきた」
と言うので、中身を見せてもらったら、
弁当箱に斜め切りにした食パンだけが入っていた。
さすがの僕もこれには苦笑いするしかなかった。

数年後、隠居の母親がパチンコ屋から出てくるのを目撃した。
こんな母親じゃ愛情ある弁当を作るのは無理だな、と思った。

体育祭のクラス対抗リレーの順番を決める時、
何もしゃべらなかった隠居が自動的にアンカーに選ばれた。
みんなの責任が重くのしかかるアンカー。
誰も異論は言わなかった。
みんなアンカーだけはしたくなかったから。
僕はたぶんトップランナーだったと思う。
その頃はクラスで一番足が早い(短距離のみ)のが僕だったから。

体育祭のリレー。
僕はどんな走りをしたのか忘れたけど、
隠居の走りだけは覚えている。

隠居は、父母たち大観衆が見守るなかで、
バトンを握ったままノロノロと歩いたのだ。
グランドを歩いてゴールした隠居を誰も責められなかった。
自分達がアンカーを押しつけたのだから。
あれが隠居なりの最大の抵抗だったと思う。

ある日の授業中、先生の話も聞かないで騒ぎ
はしゃぎまわっている生徒たちのなかで、
隠居が立ち上がっていた。
ドでかいナイフを右手に持って。
隠居の視線の先には騒いでいる不良たちがいた。
僕ともう一人がそれに気づいて、隠居からナイフを取りあげた。
今考えると申し訳ないことをしたと思う。
きっとメッタ刺しにしたかったろうに。

放課後の帰り道、前に隠居がいたので自転車で近づくと、
隠居は一目散に自転車をこいで逃げた。
帰り道の農道は一直線で2キロはある。
そこを車よりもずっと早いスピードで隠居は走った。
僕は黙って追いかけた。
途中、隠居が振り向いた。さらにスピードをあげた。
僕は負けるもんかと全速力で自転車をこいだ。

農道の終点近くでやっと隠居に追いついた。
隠居はあきらめたのか疲れたのか、スピードを落とした。
そして、僕の顔を見て隠居がニヤリと笑った。
リレーのリベンジを果たしたかのような気分だったのだろうか。
そして住宅街を二人並んで走って帰った。

あの頃、彼を「隠居」と呼ばなかったのは僕だけだった。


2005年01月27日19:16
いじめという行為について『小さな少女』
小川さんという女子がいた。
小学校から中学校までの期間、同じ学校に通った。
何度か同じクラスにもなった。

性格も顔もブサイクの◎さんという近所の女子と幼馴染みで仲が良い、
という理由だけで、いつからか彼女はエンガチョ扱いされるようになった。

極端に背の低い、大人しい少女だった。
小さな川の側の掘っ建て小屋のような家に住んでいた。 まさに小川さんだった。
そのお母さんも極端に背が低く、参観日などでは注目の的だった。
そのお父さんは一度だけ見たことあるが、
もう「お爺さん」という印象だった。
それだけで、当時の子供らには虐めるのに十分な存在だった。
虐めるというか、完全無視される存在だった。
はっきり言って虐められる方がまだマシだ。
でも、小川さんは何も主張もしなかった。
本当に大人しい少女だった。

小学4年生の頃、小川さんと僕とが机が隣同士になった。
僕は◎さんは根性も悪いので本当にブサイクだと思っていたけど、
小川さんにはそういう印象を持たなかった。
むしろ、◎さんと近所に生まれてしまっただけなのに可哀相なことだと思った。
ある図工の時間、隣の席の人の似顔絵を描くということになった。
僕は小川さんを一生懸命描いた。
描き上がった絵を見て、皆が「似てる」と笑った。
なんで上手く描けたのに笑われなきゃいけないんだ。


中学生になって、皆の小川さんへの無視はエスカレートしていった。
小川さんの物は触らないとか、
テスト用紙を渡す際に小川さんにだけ別に渡して、
彼女の後ろの女子に渡すとか。
歴史の授業で「おおきみ(大王)」と答えた小川さんの発言を、
「大きい」と聞き違いした皆が
「小さいアイツが“大きい”って!」と冷笑したとか。

気の毒だった。
でも、女子と男子の隔たりが大きい中学時代はどうしようもなかった。
自分で言うのもなんだが、足が早くて、強そうで、
女の子みたいな童顔で、勉強ができるというただそれだけの理由だけで、
クラスの女子から密かに人気があった中2の頃の僕は、
不良グループに首を狙われるのを防ぐのに必死だったので、
彼女に救いの手を差し伸べられなかった。
いや、これは今となってはただの言い訳に過ぎない…。
女子の1人だけが彼女の相手をしていたけれど、
クラスが変わって小川さんは独りぼっちになった。
でも、彼女は絶対に学校を休まなかった。

皆が小川さんへ冷酷な扱いをしているとわかった担任は、
クラスの何名かをたまたま集めた時にこう言った。

「お前ら将来、後悔するぞ」

この言葉が未だに突き刺さるのだ。
たぶん突き刺さらなかった奴もいるだろうが。

中学を卒業して、小川さんがどうなったのかは知らない。
ただ僕は、あの小さな少女が懸命に学校に来ていたことは忘れない。
あの休まなかった行為こそが小川さんの主張だったことを忘れない。
そして、小さな少女は強かったことを絶対に忘れない。


担任の言葉が胸に刺さったまま僕は、これから生きていかねばならない。
どうか幸せな家庭を築いていてほしいと切に願う。

さっき仕事を終えて、うたた寝していたら、夢に小川さんが出てきた。
この文章は、彼女への懺悔だ。


2004年11月15日12:45
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