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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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あすなろの道
書き始めから但し書きをします。

いつもよりも増してくだらないことを書きます。
なぜくだらないかというと、死について悲しく書くことは、
誰もが容易いことだからです。
楽しい日々を過ごしたい方には、
これから書く文面を読むことはお勧めしません。


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もう何年前のことか忘れた。
ただその日が今日だったことだけはしっかり覚えている。

母の咳が絶え間なくなったのは、メニエール氏病だと誤診される前のことだった。
咳が止まらない。耳鳴りがする。
様々な症状を訴えた母に判決がくだされたのは、ある梅雨の日だった。

母は「どんな結果であろうとも本当のことを教えてほしい」と言った。
結果は扁平上皮癌。いわゆる肺癌。
しかも第4期、つまり末期だと若い医者はレントゲン写真を見ながら淡々と説明した。

ついにこういう時が来たか…。
こんな状況はテレビや小説の別世界のことだと思っていた。
タバコなんて吸ったことのない母にどう説明するべきなのか。
僕らは母に病名を伏せることになった。

病院に母を残したまま、医者に迫られた抗癌剤の投与について悩んだ。
ナチスドイツの毒ガスが元になって開発されたとされる抗癌剤。
確実に髪の毛が抜ける。
病名を伏せようにも隠し通す自信がない。
しかし、ババ抜きでジョーカーだけが残ったトランプを引くことになった。

第1回目の抗癌剤の投与。
母の髪の毛は抜けることがなかった。
ただ「苦しい」とだけ言った。
そりゃそうだろう。毒ガスなんだもの…。

第2回目の投与。
だんだん髪の毛は抜け落ち、母は悲鳴に近い嘆きの声をあげた。
もう隠しきれなくなっていたが、ひたすら「癌ではない」ことを告げた。
一番信用されている自分が、一番嘘をついていることほど辛いものはなかった。

僕は当時、大阪に住んで大阪の会社に勤めていた。
仕事が終わったら、ほぼ毎日のように滋賀の母がいる病院に向かい、
時間が許す限り、母のそばにいた。
病院の廊下でいつまでも僕の姿が小さくなるまで見送ってくれた母の姿、忘れない。

結局、馬鹿オヤジのミスで母に病名がバレてしまった。
診断書を病室に忘れてきたのだ。
嘘をつかずに済むようになったが、それはそれで辛かった。
母は、しきりにカツラを買ってほしいと悲鳴をあげた。
世間でも有名なほどドケチのオヤジが、
しぶしぶ数十万円のカツラを買い与えた。

髪の毛が生えてくるまで、母はずっと帽子をかぶっていた。
しかし、生えてきたのはすべて白髪だった。
元気な頃から白髪を気にしていた人だったから、
狂ったように白髪になった自分を嘆いていた。

そして、名目だけの退院をした。
退院。それは次に来る時は死ぬ時だから、
死の準備をしなさいという意味の退院だ。

母は自分の実家に戻った。
闇の中で金縛りを仕掛けてくる義母とは一緒にいたくないと言うからだ。
そして、「自分の愛する母と暮らしたい」と言う長年の意見を尊重した。
母の母、つまり僕の祖母にはすでに痴呆が来ていたので、
母に対して白髪だらけのことを容赦なく指摘した。
それはそれで嫌な気分だったろう。
母はそれから帽子を脱いだ姿を一切誰にも見せなくなった。

サラリーマンだった僕は、母の看病に専念するため辞表を提出した。
母のいる滋賀へ会いに行く途中の列車の中で、
人目もはばからずに大粒の涙を流した。
母が死んでしまうのが悲しかったからとかではない。
自分にやさしく接してくれた仕事仲間との別れが悲しかったのだ。

ある日、母に会いに行ったら突然のことを要求された。
倉敷にいる癌治療の権威の医師のところで治療を受けたいと。
テレビを観て影響を受けたのだろう。
僕はその医師と面会できるか、入院させてもらえるかどうかもわからないまま、
未開の地である倉敷へ飛んだ。


「春までですね。」
著名な医師と面会できたのも束の間、カルテを見てそう言われた。
なす術もない、というのが医師の意見だった。

春までか。
桜を見ることはできるだろうか。
弟の国家試験の結果を知ることができるだろうか。
そんなことを思いながら、
希望の病院に入院できるという吉報を母に持って帰った。

母と僕は二人で倉敷へ向かった。
もう滋賀には帰れないということも知らずに。
治る、という決意だけを胸に秘めて。

僕は病院が持っている一戸建ての平屋を借りて、
そこから毎日、病室に向かった。

ありとあらゆる治療をした。
春までと言われた母なのに、元気そうに見えた。
僕は倉敷に骨を埋める覚悟をした。
一生、母の介護をして暮らそうと決意した。

倉敷は不便な土地だった。
駅まで自転車で40分ぐらいかかる場所に病院と僕の住まいがあった。
高梁川(たかはしがわ)が病室の窓から見えた。

いつのことだったか、高梁川の上に二つの大きな虹が出たことがあった。
今にも手の届きそうな場所にある虹を見て僕は、
虹のたもとまで行こうとひたすら歩いた。
虹を追いかける僕の姿はまるで、
望みのない回復を信じて治療に挑んでいる母と同じだと思った。
病室の窓から虹を追いかける僕を見た母には、僕はどう見えたのだろうか。
ドン・キホーテのように見えたのだろうか。
自らの化身のように見えたかもしれない。
結局、虹のたもとには辿り着けなかった僕を母は笑って出迎えた。

弟が僕の代わりに看病に来てくれたことがあった。
僕は息抜きのつもりで大阪の友人たちに会いに行った。
夜道を爆走する車の中で、友人たちと笑いあった。
ふと、「幸せだな」と思った。
友人がいる。母が生きている。母と同じ世界で生きている自分を、
なんて幸せな人間なんだろう、と気づいた。


やがて桜が咲く頃になった。
外出できない母のために、僕は三輪ほど花が咲いた桜の木の枝を、
ポキリと折って病室に持っていった。
枝を折るのには気が引いたが。
同室の患者さんたちが喜んでくれた。
母は何も言わず、桜の花びらを眺めていた。

もう春じゃないか!
医師が宣告した春が来ている!
これを乗り切ればもう大丈夫じゃないか!
僕は桜咲く病院への道を歩きながら思った。



その日は、突然来た。
そういえば、1週間ほど前から重病人ばかりの病室に移されていたけども。
朝食を食べ切って、自分一人でトイレに行った母の具合が昼頃に急変した。
座薬を入れてくれ、と僕に頼む母。
おむつをしてくれ、と初めて自力でのトイレをあきらめた母。
家族に連絡を…と看護婦さんが言った。
あわてて僕はいろんなところに電話をした。
途中で看護婦さんが電話を代わるから病室へ行くようにと言った。

母の手を握った。
母は僕の名前を呟いた。
僕はほとんど何も言葉が出なくなっていた。
握りしめた母の手の甲に、水道の蛇口を閉め忘れたかのように涙が滴り落ちた。
僕はここで初めて母に涙を見せた。
母は自分の手の甲に落ちる涙を不思議そうにじっと見ていた。
死期を悟ったのだろう。
「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」と、うわ言のように呟いた。
もう声も出なくなってしまってから、
口元がかすかに「たのむで」と動いた。
声の出ない僕はその時、母にあることを誓った。
長年、思っていた夢を打ち明けた。
きっと心に届いていたと思う。

意識がなくなった母の手を握りながら、心電図の音を聞いた。
やがて心電図の音は一定のものになった。
僕は握りしめた手を離した。
医師が母の瞳孔などを確認した。
「ご臨終です。」
なぜかもう涙は出なかった。
「ありがとうございました」と医師と看護婦さんに頭を下げた。

誰も臨終の時に間に合わなかった。
隣のベッドを見ると、筋弛緩症で全身が麻痺している鈴木さんが涙を流していた。
鈴木さんは、事の一部始終を聞いていたのだ。
「泣かないで。がんばってください」と言って僕は鈴木さんの手を強く握った。

窓の外を見ると、曇っていた空の一部から太陽の光が降りていた。
あの虹があった高梁川の方向だ。
夕方なのに、東の空から陽射しが見えるなんて…。
そういえば、伯母が死んだ時もこんな光を見たっけ…。
あれはきっと昇っていく道筋なんだ…。
亡骸を放ったらかしにして僕はひたすら空を眺めた。


間に合わなかった弟や伯母がすがるように泣いていた。
僕にはもう涙はなかった。
亡骸を平屋の家に運んで夜を過ごした。
真夜中に、缶ジュースを買いに一人で外に出たら、空には満月があった。
満月の模様が母に見えやしないかとじっと眺めていたが、
月は月のままだった。
月はいつも僕を見ていてくれるようで実はとても冷淡だ。

僕は負けたと思った。
人生を賭けた大勝負に敗れたと思った。
でも、もう怖いものなんかなかった。
あとは敗れっぱなしにならないように、自分をハッピーエンドに導くのみだ。

例えて言うなら僕の今の人生はスカイダイビングだ。
僕の落下地点は見えている。わかっている。
あとは着陸という名の、母との誓いを果たすだけ。
パラシュートは持ってない。
着陸あるのみ。


今日は4月6日。
母が死んだ日。
一年で一日が一番長い日。

病院で撮った記念写真には、Vサインをした笑顔の母が写っている。
最近、この笑顔の意味がだんだんわかってきた。
母は無理矢理に笑ってたわけではないと。

さっき、久しぶりに母のノートを引っぱり出してみた。
母は当時まだ生きていた祖母に対して辞世の句を書いていたからだ。
そこにはこう書いてある。

『あすなろと 強く生きよと願わくば
          死んで行くのも あすなろの道を』


桜咲く頃、僕は思う。
今度、桜をきちんと眺めるのは着陸してからだと。


2005年04月06日21:50(命日)

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