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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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砂漠の人
砂漠で行き倒れになっている男がいる。

男は喉が渇いて、もう死にそうである。
男は最後に一滴でも水が飲みたい。
水さえ飲めればもう思い残すことはないくらい、ただひたすら水が飲みたい。

そこに宣教師(僧侶でもいい)が偶然通りかかる。
宣教師は、水を持っていなかった。
宣教師は、この男がもう死ぬだろうと確信する。
宣教師は、この男が水を飲んだ途端に死んでしまうだろうと確信する。

宣教師は、男のために水を探すことを考えず、
生と死に関すること、死んでゆくための心得を説法する。
その説法が終わった途端、男は死んでしまう……。


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果たして男は幸せに死ねたのだろうか?
宣教師は単なる自己満足に浸っただけではないのか?
男が本当にその時に欲しかったものは、説法ではなく水だったのだ。
もしくは、せめて宣教師に水を探して欲しかったのだ。


その男は、今の僕である。
僕にはありがたい言葉の施しなんていらない。
欲しいのは水である。



2002年11月16日
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