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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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海のモグラ
父と子がいた。
川辺にいた。

子は訊いた。
「この川はどこへ流れているの?」

父は言った。
「海。いや、“明日”という未来へだよ」

「じゃあ、未来は海みたいにでっかくて広いんだね」
「そうかもな。でも、でっかくて広いだけが海じゃないんだよ」

父と子が会話する後ろには畑があった。
畑には農夫がいた。

農夫は何かを撒いていた。
売れる作物を育てるため、一所懸命に農薬を撒いていた。

農薬が土に滲みた。
それを見た父の心にも沁みた。

農薬を撒くという行為が沁みた。
それより、撒くしか選択肢のなかった農夫の窮状が沁みた。

土の中にいた大量のミミズがモグラが一目散に逃げ出した。
ある一匹のモグラは、土から飛び出て川に落ちて流された。

大量のミミズも川の方へ逃げて落ちた。
ブヨブヨの死骸になった。

ミミズの死骸を魚が食べた。
魚は、釣り人に釣り上げられて食卓に並んだ。

農薬を散布したところに風が吹いた。
その風に乗って渡り鳥が飛んだ。

農薬をたっぷり吸った渡り鳥は猟師に撃たれた。
猟師は農薬の渡り鳥をさばいて食べた。

渡り鳥がいなくなっても、風はずっと遠くまで吹き続けた。
やがて、風は大きな海を揺らし大きな波や小さな波を起こした。

波は果てしなく続いた。
波はある海岸に辿り着いた。

海岸の波打ち際は、風と波の終着駅だった。
砂粒もあれば、ゴミも何もかもがあった。

波打ち際にはあのモグラの残骸が横たわっていた。
今にも動き出しそうな、もう動かないモグラがいた。

僕はそれをずっと見ていた。
しゃがんでモグラに心の声で話し掛けた。

モグラが此所へ辿り着くまでをじっと考えた。
その残骸が朽ちるまで、また風と波が果てしなく続いた。



僕たちの“明日”の一部が海の畔に落ちていた。
モグラの姿をして落ちていた。

小さな小さなモグラよ。
長旅お疲れさん。

あの光景、お前の姿、忘れはしない、無駄にはしない。
たぶん。



これは数年前に見たモグラの話。
金沢の日本海岸にて。


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Conquering your painful memories does not mean forgetting the past, but learning from it

「つらい記憶の克服とは、過去を忘れることではなく、そこから学ぶこと」





 学べてないなあ……。
 かなり学べてない。
近況ぶつくさ
 何も書く気が起こらなかった。何を書けばいいのかわからないのでちょいと近況だけ。

 3ヶ月以上髪をカットしていないので伸び放題、街なかや電車内でじろじろ見られることが多い。

 4ヶ月以上コインランドリーへ行って洗濯していない。必要な分、手洗いしていたのだが、さすがにトランクスと靴下が間に合わない感じ。Tシャツだけはまだまだやたら豊富にある。

 この1ヶ月、友人に昼飯をおごってもらったの一度と、取材でピザを食べた以外はパンかインスタントラーメン、コーヒーだけしか食べていない。あ、一度だけ新玉ねぎをスライスして食べた。完全なビタミン不足なのに意外と生きられるものだ。お米がない生活はかなりつらい。でも、痩せない……。

 借りて振り込んでもらうはずだったお金が1万円不足していたので右往左往。どういうやり取りで電話したのか全く憶えてないので、どちらに非があるのかわからないが、少なくとも借りようとした僕が悪い。

 なんだかんだと先週にようやく(支払いで)3月を越えられたけど、4月を越えられる自信が皆無。6月がとても怖いが、それはとても先の未来のような気がする。

 やっつけ払いでさせてもらった仕事のギャランティが、3千円ほど僕が思ってたより少なかった。どういう交渉をして金額が決まったのか全く憶えていないが、3千円でも今はイタい。

 猪木さん記事もろもろをやった某掲載誌のギャランティが、配分こそ予想が外れたけれども、想定していた金額の一番少ないパターンだった……。

 首と背骨に激痛あり。その激痛が起こると、右手から指先がビリビリと痺れて痙攣を起こす。今はそれが起こるタイミングを上手く逸らしてタイピングしている。整骨院へ行って治るだろうか……。

 ここ数年、梅雨の時期になると、五月病を酷くしたような鬱状態になり、普段の鬱状態より酷いのだが、今年は数年間続いていた仕事が無くなったおかげでその症状が早く到来した。徹夜明けに企画書を送信したけど採用されず、ど暇。ど暇で銭がないっていうのが最悪だ。
 しかも、この鬱状態の時は、梅雨でカビる季節でもあって必ず「食中り」を併発してもがき苦しむ。今年はまだウンコを漏らしていない「つもり」。自宅は洋式トイレなので小便時に絶対「座り小便」なのだが、座っているにも関わらず、トイレマットとトランクスとジャージが小便浸しになった……。夜中に独り、浴槽で足踏み洗いした。雨の日から干しておいたら、昨日の晴れでようやく乾いた。



 川は明日という未来へ流れている。
 僕の流れの行く先は淀んでいる。
 たぶんダイオキシンや環境ホルモン(内分泌攪乱物質)などで、手のつけようがないほど。
 その川の名前はきっと「ヤリキレナイ川*」だ。
  


*北海道夕張郡由仁町に実在する川の名前。
 
15回目の命日
 今日は母の命日だ。
 確か夕方4時半すぎに逝った。かつて病室から母と二人で眺めた、大きな二つの虹が出た方角の空から、昇って往く光が降り注いでいたのを、亡骸を放ってじっと見つめていた。

 あの時の何もかもを、もう僕は笑い話にさえ昇華できる。
 危篤の時、ケータイがほぼなかった時代だったから、必死に公衆電話に小銭を積みながら弟や親族を呼び集めたこと。そんなこと病院がしてくれりゃあよかったのに……って思うこと。

 母の死化粧が終わって、近くに借りていた平家の僕の家に亡骸を運び込んでからやっと到着した伯母が、まるで映画のワンシーンのように飛び込んできて、亡骸にすがりついて泣いていたこと。あのシーン、フィルムに収めておけばアカデミー賞なんて比ではなかったんじゃないか……って思うこと。

 大勢の人前では一切話せないオヤジの代わりに、喪主挨拶を考えるため、葬儀が始まる寸前まで近所の友人の家でイライラしていたこと。結局、皆が望むような泣きの演説で、思惑通り会葬者らを号泣させたこと。

 火葬場のオッサンが偏屈者であることを知った弟が、母をちゃんと焼いてもらうために、誰が見ても分かるような物凄い作り笑いをして、オッサンのご機嫌を取ろうとしていたこと。

 弟の国家試験の合格を待ち望んでいた母であったが、合格通知が来たのは葬儀が済んだ翌日だったこと。

 一番大事なものを亡くした僕は、その時なにももう怖くなく最強だった。だからヤクザも殺人鬼も核兵器も怖くなかったこと。だから誰も仕切れないであろうと思われた葬儀等が僕の指示通りに行われたこと。

 葬儀の会場の隣りに、小5時代の担任教師の自宅があった。昔は泣き虫だった僕の挨拶を聞きながらきっと「まだあの子(僕のこと)は泣き虫だ」って思ったろうってこと。だから、しばらくして罰でもアタったのであろう、その担任の家が火事になったこと。



 こうやっていろいろ思い出せるように見えるかもしれないけれど、実はもうたくさんの記憶が遠ざかって失われていること。過去の日記を読んでも思い出せないことがあること。

 最愛の人をバックアップして見事に敗れた僕だったが、まだまだもっとできることがあったんじゃないかってこと。それを少し悔いてること。母が逝ってからの毎日、忘れたことなどなかった日々だったけど、もう忘れる日々があること。

 そう言いながらも、未だ母に依存していることがあること。

 母の早い死がなければ、きっと普通の生活を送っていただろうけど、文章に依存し、書くことで人生を昇華する僕は生まれてなかったであろうこと。

 何より寂しいのは、こういった思いや思い出を懐かしい話として共有できる人がもう周りに誰もいないこと。僕は友人らに支えられながらも、まだ孤独から抜け出せないでいること。

 誰にだって最愛の人の死は訪れるものなのに、僕一人が何もかもを背負って生きているような態度が自分でも解せないこと。



 嗚呼、夢の中でもいいからいっぱい喋りたいことがあるんよ、お母さん。まさか自分が心底憎かったオヤジの為にいろいろ尽くすとは考えてもみませんでした。亡くしてから気づいた「遅れマザコン」はまだまだ続きそうですよ。願い事を叶えてくださるなら、できれば死ぬまでに一度でいいから、遺書を残して消えたに会いたいです。
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