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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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あすなろの道
書き始めから但し書きをします。

いつもよりも増してくだらないことを書きます。
なぜくだらないかというと、死について悲しく書くことは、
誰もが容易いことだからです。
楽しい日々を過ごしたい方には、
これから書く文面を読むことはお勧めしません。


****************************************

もう何年前のことか忘れた。
ただその日が今日だったことだけはしっかり覚えている。

母の咳が絶え間なくなったのは、メニエール氏病だと誤診される前のことだった。
咳が止まらない。耳鳴りがする。
様々な症状を訴えた母に判決がくだされたのは、ある梅雨の日だった。

母は「どんな結果であろうとも本当のことを教えてほしい」と言った。
結果は扁平上皮癌。いわゆる肺癌。
しかも第4期、つまり末期だと若い医者はレントゲン写真を見ながら淡々と説明した。

ついにこういう時が来たか…。
こんな状況はテレビや小説の別世界のことだと思っていた。
タバコなんて吸ったことのない母にどう説明するべきなのか。
僕らは母に病名を伏せることになった。

病院に母を残したまま、医者に迫られた抗癌剤の投与について悩んだ。
ナチスドイツの毒ガスが元になって開発されたとされる抗癌剤。
確実に髪の毛が抜ける。
病名を伏せようにも隠し通す自信がない。
しかし、ババ抜きでジョーカーだけが残ったトランプを引くことになった。

第1回目の抗癌剤の投与。
母の髪の毛は抜けることがなかった。
ただ「苦しい」とだけ言った。
そりゃそうだろう。毒ガスなんだもの…。

第2回目の投与。
だんだん髪の毛は抜け落ち、母は悲鳴に近い嘆きの声をあげた。
もう隠しきれなくなっていたが、ひたすら「癌ではない」ことを告げた。
一番信用されている自分が、一番嘘をついていることほど辛いものはなかった。

僕は当時、大阪に住んで大阪の会社に勤めていた。
仕事が終わったら、ほぼ毎日のように滋賀の母がいる病院に向かい、
時間が許す限り、母のそばにいた。
病院の廊下でいつまでも僕の姿が小さくなるまで見送ってくれた母の姿、忘れない。

結局、馬鹿オヤジのミスで母に病名がバレてしまった。
診断書を病室に忘れてきたのだ。
嘘をつかずに済むようになったが、それはそれで辛かった。
母は、しきりにカツラを買ってほしいと悲鳴をあげた。
世間でも有名なほどドケチのオヤジが、
しぶしぶ数十万円のカツラを買い与えた。

髪の毛が生えてくるまで、母はずっと帽子をかぶっていた。
しかし、生えてきたのはすべて白髪だった。
元気な頃から白髪を気にしていた人だったから、
狂ったように白髪になった自分を嘆いていた。

そして、名目だけの退院をした。
退院。それは次に来る時は死ぬ時だから、
死の準備をしなさいという意味の退院だ。

母は自分の実家に戻った。
闇の中で金縛りを仕掛けてくる義母とは一緒にいたくないと言うからだ。
そして、「自分の愛する母と暮らしたい」と言う長年の意見を尊重した。
母の母、つまり僕の祖母にはすでに痴呆が来ていたので、
母に対して白髪だらけのことを容赦なく指摘した。
それはそれで嫌な気分だったろう。
母はそれから帽子を脱いだ姿を一切誰にも見せなくなった。

サラリーマンだった僕は、母の看病に専念するため辞表を提出した。
母のいる滋賀へ会いに行く途中の列車の中で、
人目もはばからずに大粒の涙を流した。
母が死んでしまうのが悲しかったからとかではない。
自分にやさしく接してくれた仕事仲間との別れが悲しかったのだ。

ある日、母に会いに行ったら突然のことを要求された。
倉敷にいる癌治療の権威の医師のところで治療を受けたいと。
テレビを観て影響を受けたのだろう。
僕はその医師と面会できるか、入院させてもらえるかどうかもわからないまま、
未開の地である倉敷へ飛んだ。


「春までですね。」
著名な医師と面会できたのも束の間、カルテを見てそう言われた。
なす術もない、というのが医師の意見だった。

春までか。
桜を見ることはできるだろうか。
弟の国家試験の結果を知ることができるだろうか。
そんなことを思いながら、
希望の病院に入院できるという吉報を母に持って帰った。

母と僕は二人で倉敷へ向かった。
もう滋賀には帰れないということも知らずに。
治る、という決意だけを胸に秘めて。

僕は病院が持っている一戸建ての平屋を借りて、
そこから毎日、病室に向かった。

ありとあらゆる治療をした。
春までと言われた母なのに、元気そうに見えた。
僕は倉敷に骨を埋める覚悟をした。
一生、母の介護をして暮らそうと決意した。

倉敷は不便な土地だった。
駅まで自転車で40分ぐらいかかる場所に病院と僕の住まいがあった。
高梁川(たかはしがわ)が病室の窓から見えた。

いつのことだったか、高梁川の上に二つの大きな虹が出たことがあった。
今にも手の届きそうな場所にある虹を見て僕は、
虹のたもとまで行こうとひたすら歩いた。
虹を追いかける僕の姿はまるで、
望みのない回復を信じて治療に挑んでいる母と同じだと思った。
病室の窓から虹を追いかける僕を見た母には、僕はどう見えたのだろうか。
ドン・キホーテのように見えたのだろうか。
自らの化身のように見えたかもしれない。
結局、虹のたもとには辿り着けなかった僕を母は笑って出迎えた。

弟が僕の代わりに看病に来てくれたことがあった。
僕は息抜きのつもりで大阪の友人たちに会いに行った。
夜道を爆走する車の中で、友人たちと笑いあった。
ふと、「幸せだな」と思った。
友人がいる。母が生きている。母と同じ世界で生きている自分を、
なんて幸せな人間なんだろう、と気づいた。


やがて桜が咲く頃になった。
外出できない母のために、僕は三輪ほど花が咲いた桜の木の枝を、
ポキリと折って病室に持っていった。
枝を折るのには気が引いたが。
同室の患者さんたちが喜んでくれた。
母は何も言わず、桜の花びらを眺めていた。

もう春じゃないか!
医師が宣告した春が来ている!
これを乗り切ればもう大丈夫じゃないか!
僕は桜咲く病院への道を歩きながら思った。



その日は、突然来た。
そういえば、1週間ほど前から重病人ばかりの病室に移されていたけども。
朝食を食べ切って、自分一人でトイレに行った母の具合が昼頃に急変した。
座薬を入れてくれ、と僕に頼む母。
おむつをしてくれ、と初めて自力でのトイレをあきらめた母。
家族に連絡を…と看護婦さんが言った。
あわてて僕はいろんなところに電話をした。
途中で看護婦さんが電話を代わるから病室へ行くようにと言った。

母の手を握った。
母は僕の名前を呟いた。
僕はほとんど何も言葉が出なくなっていた。
握りしめた母の手の甲に、水道の蛇口を閉め忘れたかのように涙が滴り落ちた。
僕はここで初めて母に涙を見せた。
母は自分の手の甲に落ちる涙を不思議そうにじっと見ていた。
死期を悟ったのだろう。
「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」と、うわ言のように呟いた。
もう声も出なくなってしまってから、
口元がかすかに「たのむで」と動いた。
声の出ない僕はその時、母にあることを誓った。
長年、思っていた夢を打ち明けた。
きっと心に届いていたと思う。

意識がなくなった母の手を握りながら、心電図の音を聞いた。
やがて心電図の音は一定のものになった。
僕は握りしめた手を離した。
医師が母の瞳孔などを確認した。
「ご臨終です。」
なぜかもう涙は出なかった。
「ありがとうございました」と医師と看護婦さんに頭を下げた。

誰も臨終の時に間に合わなかった。
隣のベッドを見ると、筋弛緩症で全身が麻痺している鈴木さんが涙を流していた。
鈴木さんは、事の一部始終を聞いていたのだ。
「泣かないで。がんばってください」と言って僕は鈴木さんの手を強く握った。

窓の外を見ると、曇っていた空の一部から太陽の光が降りていた。
あの虹があった高梁川の方向だ。
夕方なのに、東の空から陽射しが見えるなんて…。
そういえば、伯母が死んだ時もこんな光を見たっけ…。
あれはきっと昇っていく道筋なんだ…。
亡骸を放ったらかしにして僕はひたすら空を眺めた。


間に合わなかった弟や伯母がすがるように泣いていた。
僕にはもう涙はなかった。
亡骸を平屋の家に運んで夜を過ごした。
真夜中に、缶ジュースを買いに一人で外に出たら、空には満月があった。
満月の模様が母に見えやしないかとじっと眺めていたが、
月は月のままだった。
月はいつも僕を見ていてくれるようで実はとても冷淡だ。

僕は負けたと思った。
人生を賭けた大勝負に敗れたと思った。
でも、もう怖いものなんかなかった。
あとは敗れっぱなしにならないように、自分をハッピーエンドに導くのみだ。

例えて言うなら僕の今の人生はスカイダイビングだ。
僕の落下地点は見えている。わかっている。
あとは着陸という名の、母との誓いを果たすだけ。
パラシュートは持ってない。
着陸あるのみ。


今日は4月6日。
母が死んだ日。
一年で一日が一番長い日。

病院で撮った記念写真には、Vサインをした笑顔の母が写っている。
最近、この笑顔の意味がだんだんわかってきた。
母は無理矢理に笑ってたわけではないと。

さっき、久しぶりに母のノートを引っぱり出してみた。
母は当時まだ生きていた祖母に対して辞世の句を書いていたからだ。
そこにはこう書いてある。

『あすなろと 強く生きよと願わくば
          死んで行くのも あすなろの道を』


桜咲く頃、僕は思う。
今度、桜をきちんと眺めるのは着陸してからだと。


2005年04月06日21:50(命日)

バールのようなもの
「バールのようなもの」って、犯罪ニュースでよく聞く。
僕は「ようなもの」じゃなくて、
本当にバールを使う仕事をしていたことがある。

もう何年前になるのか忘れた。
営業職を辞めて、母親の看護も終わって、
毎日のように琵琶湖で釣りをしてブラブラしていた頃の話。

堺市に住む女友達のところに遊びに行ったら、
そこのオヤジに「仕事しろ」って言われ、
半強制的に仕事を手伝うハメになった。
しかも家に帰るのは遠すぎるので住み込みだ。

職業名を正式にいうと『型枠解体工』。通称、バラシ屋。
ニッカポッカと地下足袋を履いて、
バールや金づちを振り回して汗だくになって働いた。

『○○組』という、名前に『組』が付くところで働いたのは、
後にも先にもあの時だけだろう。

仲間の人らは前科者ばかりで、車で仕事場に移動する時は、
競馬かオメコの話ばかりが飛び交っていた。
ギャンブルはしないし、当時は純朴だった僕にはある意味過酷。

さすがに女友達の家にいつまでも居候するわけにはいかないので、
不動産屋を紹介されて、マンションを借りることになった。

どこからみてもヤクザもんの不動産屋は、
指にたくさんの宝石をしていた。
そしてその指で僕の職業欄に「工員」と書いた。

僕は道を外れてしまったとその時になって後悔した。
肉体労働を卑下するつもりは毛頭ない。

仕事には大きく分けて2種類あると思っている。
1つは、人のためになる仕事。
もう1つは、人を楽しませる仕事。

人を楽しませるクリエイティブなことを
目指してきた僕にはショックだった。

当時はイヤでイヤでしょうがなかったけど、
今では肉体労働こそが真っ当な仕事じゃないのかと思っている。
ということは今、僕は真っ当から外れているわけだが…。

腹筋が見事に割れて、鏡の前でポージングしていたあの頃が懐かしい。
金づるだった雑誌の連載が終わった今、いろんな仕事を考え始めている。


2005年04月05日21:25

勝ち逃げ
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今日がビリケンの最後の日だった。


サッカー「日本VSバーレーン」を観ながら別れを惜しもうと、
仕事の途中だったが、お腹も減ってなかったが、とにかく店に行った。

店にはポツポツと別れを惜しむファンが来ていた。
写真を撮る人。
本棚をじっくり眺める人。
漫画も読まないで、ただじっと店の終わりを待つ人。

僕は、オムドラの大盛りを注文した。お金がないくせに…。
オムドラは、オムライスの中にドライカレーが入っているものだ。
マスターは「特盛りにしました~」とジャンボオムドラを作ってくれた。
今日が最後の日なんだ。

普段なら、漫画を読みながら食べるのだけれど、
今日はオムドラと正面向かい合って食べた。

あっという間に食べてしまってからアイスコーヒーを注文。
ビッグコミックを読みながらサッカーの中継が始まるのを待った。
そんな僕を見て、マスターがテレビのボリュームを上げてくれた。
さらに試合が始まると、
「テレビの前で観てください」と初めて店の奥に座らせてもらった。

日本代表よ。どうか勝ってくれ!
有終の美を与えてくれ!
そう願いながらテレビに釘付けになった。

「今日は○○くん(ボスの名前)来ーへんの?」
「いっつもサッカーの時は来てくれてたのに」って聞かれたので、
途中、仕事場に電話したら、早く帰ってこいと言われた。
仕方がないので、前半戦だけ観終わったら席を立った。
0対0で引き分け状態のまま。

マスターと名刺交換をし、「ありがとう、ご苦労さま」と言って仕事場に戻った。
他のお客は、まだ席を立とうとしなかった。
きっと僕と同じく、サッカーに有終の美を求めていたんだろう。

仕事場で日本代表の勝利を知った。
オウンゴール(自殺点)での辛勝だ。無理矢理ぎりぎり勝ったという感じだ。

家に帰ろうとしたら、店の前で撤収作業が行われていた。
マスターを探したらいなかったので帰ろうとしたら、
後ろからマスターに声をかけられた。
なんかいろいろ喋りかけてくださったのに、
僕は「また!」としか言えなかった。

振り返ると、マスターもこちらを振り返った。
「勝ちましたね!」とマスターが笑顔で言った。
「勝ち逃げですよ!」と僕は返した。

そうだ。ビリケンは僕の心の中から勝ち逃げしたのだ。
どんな形でもいい。最後に勝ちゃあいいんだ。

ビリケンが終わった今日、僕は仕事の連載終了を告げられた。
なにかがひとつふたつ、心の中で終わった。
僕も勝ち逃げしたい。


2005年03月30日23:49

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愛する人が余命を宣告されたキミへ
力うどんを食べた。
焼肉定食を食べた。
トンカツ定食を食べた。
一緒に母と食べた。
母は僕より早く料理をたいらげた。

母は、僕が注文したものと同じものを食べたがった。
余命1年以内だった僕の母の気持ち、キミにならわかるだろ?

僕は、ほとんどすべてを捨てて、
母の末期を倉敷で過ごすことにした。
見知らぬ土地で、見知らぬ人たちと共に暮らし、
ここで生きていこうと決心した。

毎日が辛かった。
人はこういう状態を地獄と呼ぶのだな、と思った。
弟が来てくれた時は、看病から離れ旧友と夜中まで遊んだ。

旧友たちと騒ぎながら車で夜道をぶっ飛ばしてる時、
夜の街を眺めながら、ふと「幸せだな」と思った。
楽しかったからだけではない。

まだ自分は母に包まれて生きているのだな、と思った。
愛する人が生きていてくれるってなんて幸せなことなんだろう、と思った。
僕が倉敷という土地で生きていこうという決心は、
母の死と共に、ものの見事に崩れ去ったけれど、
一瞬でも幸せを感じることができて僕は強くなった。

一部の人はこういうことを「解脱」なんて呼んでしまうけれど、
不幸は避けてもやってくるし、
本当の意味での幸せはどんなに努力して求めても得ることはできない。

一所懸命やれば、誰もが幸せに気づくとはかぎらない。
与えられた幸せは長続きしない。
求めてつかみとった幸せは、無くすことを恐れることになる。
地獄の淵にこそ幸せは転がっているものだ。
だから自分の今を受け入れて、大いに楽しむがいい。
そして強くなるのだ。


愛する人が余命を宣告されたキミへ。


2005年03月30日00:37

さよなら漫画喫茶ビリケン
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事務所のビルがある1階には、ビリケンという名の漫画喫茶がある。
夜でもランチが食べられるという面白い店だ。
最近、僕はずっと貧乏なので、めっきりビリケンに寄り付かなくなったけど、
今の事務所に居座った頃は、仕事の合間に息抜きの場所として、
仕事の猥雑さを忘れる場所としてよく利用した。
350円のアイスコーヒーだけを注文して何時間も漫画を読みあさった。
ちょっとボロいけれど、憩いと癒しの空間、それがビリケン。

店にはマスターがセレクトした昭和時代の良き漫画がズラリと並んでいる。
よく見ればほとんどの漫画が初版本だったりする。
ゴジラ関係のフィギュアやポスターもぎっしりと並べられている。
店の象徴のビリケン様の人形の横には、巨大なゴジラも立っている。

僕はほぼ毎日のように仕事場を抜け出して、
水島新二の高校野球漫画を手当りしだい読んだものだ。
行き詰まっていた仕事があろうが、
仕事のない時であろうが、その頃はお金に余裕があったので、
何かに吸い寄せられるかのように通っていた。
仕事場に行くというよりも、
ビリケンにある漫画の続きを読むために通勤していた、
と言っても過言ではない。

たまには食事もした。
注文するのはほとんどがミートオムライスの大盛り。
僕のお気に入りだ。
パルメザンチーズとタバスコをたっぷりかけて食らう。
特別においしいというわけではない。ジャンクな味だ。
食べるとすぐに喉が渇くので、お水をガブガブ飲む。
するとマスターは、お水がなくなった絶妙のタイミングで、
お水をそそぎに来てくれる。ちょっとくどいほどに。繰り返し繰り返し。

昨日、今月末の水曜に店を閉めてしまうということを聞いた。
経営不信が原因らしい。

「儲かってる時にやめとけばよかった」とマスターが笑った。
今夜、仕事を終えてから僕はビリケンに駆け込んだ。
写真を気軽に撮らせてくれた。
いっぱい撮った。
「マスターも撮りたい」と言うと、笑顔でVサインをしてくれた。
なぜか手が震えて、写真がブレてしまった。
アイスコーヒーを飲みながらタバコを吸っていると、
店中を名残惜しく眺めている僕をマスターがずっと見ていた。
お客は僕一人だけだった。

マスターは、17年間あの場所で毎日毎日、朝から晩まで、
日曜も祝日も関係なく、混雑するお昼の時間帯以外は、
ほとんど一人っきりでずっと立ち仕事をしていたのだ。
平成とともに産声をあげた昭和の香りのする店が、
今まさに終わろうとしている。

せっかく目の前にアニメ系の専門学校があるのに、
そこの生徒をビリケンでは見かけたことがない。
僕にはまるで感情移入ができない、見ていて恥ずかしくなるようなキャラばかりの、
いわゆるアキバ系のアニメやマンガしか彼らには興味がないんだろう。
残念だ。
こんなに近くに宝島があるのに。

「僕が死んでもずっと続くものだと思ってました」
と消極的なことを言うと、マスターは
「またどこかでやりますんで、その時は連絡しますわ」
と意気込みを語ってくれた。

マスターは、お客が店を出るまで、
都合4回「おおきに。ありがとうございました」を言う。
今夜はその言葉の最後に小さな「おおきにぃ」が付いてきた。

さよならビリケン。
さよならマスター。
さよなら僕の汗が渇いた場所。

「さよなら」は別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束…だ。
マスターこそがビリケンという神そのものだったんだと気づいた。

マスターはきっと復活の狼煙をあげる。
僕はそれまで、約束を信じて待っていることにする。


2005年03月25日22:34

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弟への鎮魂歌『ゲームセンターあらし』
僕の弟が遺書を残したまま行方不明なままなのは、
この日記を以前から読んでくださっている人ならご存じかと思う。

幼い頃から自閉症気味で、友達も1人いるかいないかで、
服の着替えも学校ではクラスメイトに手伝ってもらわなければできない…。
そんな弟だった。

僕が何かするとすぐに泣き出すし、
オヤジは幼い弟を厄介者扱いしていた。

小学生だったある日、ドラえもんが目的で初めて買ったコロコロコミック。
弟に渡したら、『ゲームセンターあらし』を夢中になって読んでいた。
いつしか毎月、コロコロコミックに連載されていた『あらし』を、
2人でセリフを声に出して読みながら楽しんだ。
必殺技「月面宙返り」のルビ「ムーンサルト」をちゃんと読めずに、
2人で「ムーンサルトりーッ!」って叫んだりしていた。
貧乏で薄幸な家庭の僕たち兄弟の、一番仲が良かったいい時代だった。

少ない小遣いで、ゲームセンターにも行った。
プレイするのは、やっぱり『あらし』がプレイしたゲーム。
いつのまにか弟は僕よりもずっとゲームに詳しくなっていた。
そして、『あらし』の単行本をほぼ全部買い揃えていた。
街に住んでいるお婆ちゃんの家に行った時に買ったものらしい。

『ゲームセンターあらし』がテレビアニメ化されることを知った時、
僕はクラスの男子連中に「絶対テレビ見てや!」と、
我が事のように宣伝していた。
田舎に住んでいた当時は、コロコロコミックを取り扱っている
本屋さんも少なくて、テレビアニメ化されるまでは、
僕の周囲で『あらし』はまだまだマイナーな存在だったからだ。

『あらし』の初放映の時、弟と2人してテレビ画面を食い入るように見つめた。
自分のことのように画面の中の『あらし』を応援した。

いつの日からだったか、弟がノートに漫画を描き始めた。
ドケチのオヤジがそれを許すわけもなく、
僕らにセキスイハウスの巨大広告ポスターを与え、
「その紙の裏に描け!」って言った。

僕らはそれでも満足して描きまくった。
弟が描いた漫画は『あらし』のモロパクリで、
その名も『ゲームセンター貝くん』。
主人公の『貝』が様々なゲームを攻略するというものだった。

弟が自己表現的な創作活動をしたのはあれが初めてだった。
僕は、その『貝くん』をいつも楽しみに読んでいた。
弟は、僕以外の誰にもそれを見せなかった。
今となっては2人で漫画を見せ合いっこした素晴らしい思い出だ。

兄弟としての幸せな思い出が、
この『ゲームセンターあらし』に集約されているのだ。
だから作者の、すがやみつる先生には感謝してやまない。

今日、すがや先生から返事が来た。
僕のワガママな要求を快く引き受けてくださった。

とても嬉しい。嬉しすぎる。
弟に自慢したい。
「お前の大好きな、すがや先生と交流できたよ!」って。
あちらの世界にいるだろう弟は見てくれているだろうか。

すがやみつる先生、本当にありがとう。


2005年03月11日20:37
しんどうて
またコイツ頭がおかしくなったようなこと言っている、と思って読んでほしい。

人それぞれに死期というものがあるなら、
今日ボクはそれを悟ってしまった。

地下鉄の駅の構内で左胸が締めつけられるように痛くなり、
その場に倒れそうになった。
救急車を呼んでもらおうと思うたけど、
踏ん張って持ち直して取材先に向かった。
早口で喋りまくる近くに居た乗客女の声が、悪魔の呪文に聞こえた。

朝から、滋賀の安土で老人ホームと役場を行ったり来たり
レンタサイクルで全力疾走して、JRに飛び乗り、
仕事のためにこっちに戻ってきた。

その途中での出来事だ。

取材中も先方の我侭を聞いてうんざりして、
また痛くなったけど、胸を抑えて耐えた。
ケータイにいっぱい電話がかかってきて、
こいつら皆バカか、殺す気か、と思うたけど、
喋るのも言葉を発するのもしんどかったけど耐えた。
取材を終えて帰るのも辛くなり、ドトールで休憩した。

とにかく今、持っている仕事を全うしたら、
やり残した大きな一つの為に、ボクは隠ると思う。

とにかく明日、目が覚めるのなら病院に行く。
ちょっとでも長生きしたいので、酒はしばらくやめる。
明日、目が覚めたら…の話だが。

とにかく疲れたので深く眠らせてください。
今夜、電話は一切お断りします。

今、気づいた。
ヘアバンドがずぶ濡れだ。
搾り出せるぐらいだ。
シャツもコートも全部。
汗水たらして自分を全うするのはとても難しいことだ。

言い忘れたけど、これは決してネガティブな発言じゃないということ。


2005年03月09日19:47
echo(エコー)
3月3日は、母方のお婆ちゃんの誕生日だった。
もし生きていれば100歳過ぎだったろう。

お婆ちゃんはタバコが好きだった。
いつも吸っていたのがecho。
「12(歳)の頃から吸ってたわ」と得意げに語るお婆ちゃんを、
母親が苦笑いしながら聞いていた。
昔は、喫煙者の女性の大半が売春婦だと決めつけられていたみたい。

昨日、安土で偶然echoを売っている自販機を見つけた。
迷わず購入した。

そういえば、お婆ちゃんの誕生日に、
タバコが体に悪いと知らずに、大量のechoをプレゼントしたっけ。

「こんな陰気なところじゃ、タバコでもふかしたいなぁ」
って、老人ホームに入ったお婆ちゃんは言ってたっけ。

脳硬塞で意識不明になって、余命わずかな時に見舞いに行った。
息をするだけで全く動かないお婆ちゃん。
鼻から通した痰を吸い取る管を抜く時だけ、苦痛の表情を見せた。
僕は、お婆ちゃんの手を握りながら大粒の涙を流した。
お婆ちゃんという存在を失うことへの悲しさから出た涙だ。

脳硬塞になる前、お婆ちゃんはすでにボケていたが、
何度も僕に聞いた。
「キミコ(母親のあだ名)は元気か?」
僕は答えられなかった。
もうすでに母親は肺癌で死んでいたから。

お婆ちゃんが死んだ夜は満月だった。
母親と同じだ。

僕は、お婆ちゃんの棺にechoとマッチを入れた。
火葬場の煙を見上げながら、
お婆ちゃんがタバコを吸っているんだなぁ、と思った。

誕生日が3月3日なのは、養女だから正確な誕生日がわからなくて、
キリのいい3月3日にした、とお婆ちゃんに聞いたことがある。

僕が今、吸っているechoの煙、
大空でお婆ちゃんの煙と混ざりあっているだろうか。


2005年03月05日14:52

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226
今年も226がまもなくやってくる。

実はもう弟とは一生会えないと思っている。

だから2月26日は、鎮魂歌を唄う日でもある。

弟よ。

消えたお前が憎らしく思える時もある。

お前はもう母さんのところへ行っているのか。逝っているのか。

ずるいぞ。

子供の頃、母さんが「私が死んだらどうする?」って聞いてきた時、

お前と二人で「僕も母さんと一緒に死ぬ」って答えたじゃないか。

ずるいぞ。ずるいぞ。

俺はお前と母さんを背負って生き抜かねばならないじゃないか!

死に損ないのオヤジも背負って生きていかねばしょうがないじゃないか!

俺にも選択権をくれよ。

いつからかお前を腫れ物扱いしたことを後悔している。

お前は俺以上の精神薄弱者だった。

ダメな兄で悪かったな。

ダメな兄には、ダメな弟しかできないものなんだな。

お前はダメ人間だ。

誕生日おめでとう。


2005年02月25日21:53
ブログは柔らかめに。
 ブログって思ったことをなんでも書けないのが痛い。どんな事情があるにせよ。だから指摘だけでなく、それに対しての改善策の提案もするようにします。
 ブログは万人に検索されるので、キツめ、ヤバめのことは載せないようにしているのだが。やはり、閉鎖されたmixi日記以外では抑圧されるのか? それならこんなブログやめた方がマシだ。
 結局、ここでもウォッチ(監視)されるんだなぁ。監視だけならいいけど過剰反応されると心痛いなぁ。ここは所謂「myself」なので汲んでもらいたい。という私からの願い。
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