【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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清原クンと桑田クン
きよはUo1_500



 先週は、YouTubeで清原選手の引退試合とセレモニーをずっと観ていた。「YouTubeでそういうのを観た」って書くのは云々言われるかもしれないが、それは無粋というもの。動画が落ちてたんだからしょうがない。それに我が家にはテレビもワンセグもWindows搭載パソコンもない。

 とにかく全部5回以上観た。僕は単純かつ、実は小1から筋金入りの野球オタクなので、予定調和の演出であったとしても泣けた。ただ、清原選手の周囲をくるくる回り出した長渕さんだけは、妙な動きに見えたが、あれはカメラワークが悪い。


 清原選手で思い出すのは、中学生時代に僕が燃え尽きた柔道部に在籍していた後輩の上田。上田はほんまにアホやった。休憩時間にフルチンで踊り出して皆を爆笑させたり、2点を取った答案用紙をわざわざ皆に見せたり。

 何気に皆で会話をしていた時に、「アイドルでは誰が好き?」って話になった。皆が当時のアイドル、女優などの名前を出していたら、突然、上田が話の輪に挙手をしながら割り込んで来た。

「はーい! はーい! 僕も好きなアイドルいまーす!」
「いきなり飛び込んでくんな!(笑) ほんでオマエは誰が好きやねん?」

「清原クンと桑田クン!!」
※ 一同爆笑

「“クン”はやめろ! “クン”は!(苦笑) せめて、清原さんか清原選手って言え!」
「だって~。カッコいいんやもん!」


 当時、PL学園の選手として甲子園を賑わせていた2人。野球が大好きと公言する前田が憧れるのも無理はない。無理はないけども1年生だった上田が、あまりにも言葉遣いや礼儀を知らないので再三注意した。

「俺(当時2年生)はかまへんけど、3年の先輩にタメ口はやめろ」
「だって、どう言うたらいいのかわからんもん!」

「M先輩(3年生)だけ“先輩”って呼ぶのに、なんで俺は“クン”やねん!」
「M先輩は同じ町内やもん!」

「オマエ、柔道着洗えよ! 納豆くさいねん!」
「持って帰るのめんどうやもん!」

 3年生の先輩たちは上田にはお手上げ状態で、中体連の県大会が終わり部活を去る際に、「上田は大変やろけど頑張れよ(笑)」「オマエ、上手いこと部員集めすぎたな(笑)」などと言われた。新入部員が5名も入れば多いほど人気がない柔道部で、僕は見学に来た新入生を褒めちぎって笑わせて20名以上集めてしまった。先輩らが集めろって言ったくせに(苦笑)。

 とにかく部長(主将)に選ばれてしまった僕は、県大会の地区予選をギリギリ通過するのがやっとこさなウチの柔道部をなんとかしたかった。で、スパルタ的なものに走る。ゴツい後輩もいたが、ヤワなのも多かったからだ。それに、県下でも1、2番にワルだと言われていた学校だったから、自衛策としても強くさせたかったのだ。


 話は逸れるが、僕が入学した当時は、漫画のビーバップハイスクールを彷彿させる不良たちばかりだった。同じ学年の不良らは、僕のことを知ってるので手を出そうともしなかったけど、3年生あたりは半分以上がえげつないヤンキーだらけ。歩いてるだけで知らないヤンキーに呼び止められたり、命令されたりするほど。
 僕は、万事に備えて学生服のポケットにロープ(首絞用!)やカッターナイフ、メリケンサックを忍ばせ、おまけにポケットに手を入れながら40kgのハンドグリップで握力を鍛えていた(笑)。幸い、同じ町内で3年の元気ハツラツなSクンが不良たちと談笑中に、僕を見かけたら笑顔で接してくれていたので、「Sが可愛がってる奴」として認知されてかなり助かった。数年後、Sクンは海外にて交通事故死したけども……。

 そんな学校だったのに、ある日、部活の顧問の先生(尊敬しているので「先生」。その他は「教師」)に諭された。
「おまえは素手で人殺せるような力と技、おまけに冷徹、いやキツい心まで持ってるから、絶対に喧嘩はするな!」

 仕方がないのでそれはずっと守った。喧嘩を売られても、笑いながら全て防御で相手が疲れてやめてしまうのを待った。授業中に抜け出して、不良たちの喧嘩トーナメント(?)を見学していても、僕は参加させてもらえなかった。それどころか、修学旅行先でのプロレスごっこ(といえど、かなり本気で大量出血してる奴もいた)でさえ、クラス一のワルに「レフェリーやってくれ」と懇願された。


 かなり話は脱線したが、要するに後輩らには自分は強いという気持ちと、柔道というキツくて厳しいことをしている誇りを持たせたかった。なのに、稽古中に疲れたら、ふざけて戯けて緊張の糸を緩めてしまう上田……。上田をしばくためではないが、いつしか僕は剣道部の竹刀を持ち出して皆の稽古をつけた。竹刀でしばいたら泣いてしまうようなのもいたが、実は竹刀ってのは喉に突きでもされない限り、いつも畳に投げられている人間にとっては全然痛くない。僕も警察官が主催してる柔道サークルにおいて竹刀でかなりしばかれたけど、冬場の凍り付くような畳に投げられる方がよっぽど痛い。だから、プロレスラーが竹刀でしばかれて痛がるってポーズはちゃんちゃらおかしい。


 そこで上田。竹刀でしばいても鼻歌を歌い出すし、平気な素振り。彼はデブなのに恐ろしいほどカラダが柔軟で、遊びで誰かがプロレス技の逆エビ固めをかけても、両肘をつきながら口笛を吹いていた。「お腹を殴られても痛くない」と豪語するので後輩がグーで殴ると、ポコーンと厚いお腹の脂肪と妙に硬い皮膚と筋肉が、ショックを吸収してしまう特異体質だった。
 あまりにやる気もなく、稽古中に堂々とサボりだした上田にキレて、今度は木刀でその腹をボコボコに殴ったこともある。さすがに腹以外を殴ると危ないのでそれ以上はしなかったが、木刀よりも僕がブチギレたことに恐怖を感じて上田は泣き出した。

 それ以外でも何かにつけて泣く度に、上田はいっつもいっつも言うた。
「いいも~ん! 僕、野球部行くも~ん」
「プロ野球選手になるも~ん」
「柔道なんてやめるも~ん」

 その言葉に後輩たちが言うた。
「オマエなんかが野球できるか!」

 僕は言うた。
「辞めたきゃすぐ野球部に行ってまえ!」

 顧問の先生はこっそり僕に言うた。
「こういう言い方はあかんけど、あいつはある意味“本物”やさかいにそんなにムキになるなよ」

 僕は先生に問うた。
「それやのになんで普通学級にいるんですか!?」
「上田は野球部に行きたいらしいんで、転部させてやったらどうですか?」


 当時、転部や退部は御法度に近かった。内申書に「3年間○○部で活躍した」と書かれなければならなかったからだ。僕の言葉より先に、ふざけた態度を別の後輩に怒られたのかどうか知らないが、上田はキレて叫んで稽古場から出て行った。 
「いいもん! 僕、野球部行くもん!!」

 後輩たちはその言動に怒って追いかけて行こうとしたが、僕は「ほっとけ!」となだめた。しばらくして、「上田が野球部に入った」というのを聞いたが、どうやらそこでおちょくられて、邪険にされているとも聞いた。中学・高校の野球部員なんてのは、練習の合間に飯を食って勉強するようなスタミナと我慢の塊。例えればマラソンランナー。柔道部員は、それより短時間でみっちり稽古するけど持久力には乏しい短距離ランナー。落ちつきのない上田が野球部を辞めてしまうのは目に見えていた。


 ある日、稽古場へ行くと、誰かを取り囲んで後輩たちが何やら叫んで怒っていた。怒りの矛先は上田。柔道着を持って立ったまま、皆にどやされて下を向き黙っていた。
「一度辞めたら戻れませーん!」
「ワレ、何しに来たんじゃ!」

 僕が稽古場へ入ると、後輩たちが「上田が! 上田が!」と僕に訴えてきた。僕は上田に訊いた。
「また、柔道やりたいんか?」
「はい……」

「ほな早よ(道着)着ろ」


 喜々として「はい!!」 と叫んで着替えた上田は、挙手しながら畳の中へ飛び込んでくるくる回って走り出した。
「上田でーす! 柔道部の上田でーす!」

 ついさっきまで怒っていた後輩らも苦笑していた。



 卒業して、僕が高2になった頃、母校の近くの駅じゃなく、珍しく隣の○○駅から電車に乗ろうとしたら、改札口で上田を見つけた。声を掛けたらキョトンとしていたが、「俺や! 柔道部の○○や!」って説明したら思い出してくれた。
「あ……先輩、お久しぶりです」

 彼の話では、顧問の先生に就職先を紹介してもらって仏壇を作っていると言う。「オマエの方が先に社会に出て仕事して偉いのう」って言ったら、エヘヘって感じで照れながら頭をボリボリ掻いた。


 それから何度かその駅で上田に偶然会うことがあった。
「あ! それ最新型のウォークマンやんけ」
「うん。いや、そうですよ」
 
「お。ちゃんと敬語しゃべれるようになったやん」
「はい」

 そう言いながらまた頭をボリボリ。ウォークマンで聴いている曲が気になったので訊いた。
「誰の歌、聴いてるの?」
「トシちゃん!」

 ズッコケている僕に、録音したカセットテープのケースを見せてくれた。ケースの背中には見事なまでの縦書きで、








 と書いてあった。「俊」の文字が、見たこともない造形だったけども……。

「へぇ、これはどんな曲?」
 訊くと彼は説明してくれたが、僕の知らない曲だったので、説明は面倒だとばかりに電車内で歌い始めた。
「こら上田! ちょっと声がデカ過ぎるって!(赤面)」

 歌声のボリュームを下げた上田に、どんどん訊いたら延々と歌ってくれた。僕が先に降りる駅に到着した途端、上田は言った。
「え~!? もう~?」

 電車の速さにブーイングした上田。オマエは面白い奴だったよ。




 上田、上田。
 オマエの大好きな清原クンの引退式ちゃんと観たか?
 俺が泣けたくらいやから、オマエは大泣きしたんちゃうか?
 若くして社会に出たオマエはなんだか少し窮屈そうやったな。
 職場の人たちと仲良く出来てるんかな?
 俺はもう無理しても駄目っぽいけど、オマエはあのまま元気でいるんかな? いや、元気でいろ! これは先輩からの最後の厳命や。
 世間の風は冷たいやろうけど、きっとオマエは明るいオマエでいてくれてると信じてる。

 なぁ上田。あの頃は楽しかったな。
 オマエがいてくれたおかげや、なんて言うたらまた照れるんやろ?
 でも、ほんまにありがとうな。
 皆の好きなアイドルはたぶんオマエやったんや。
 上田。いつかまたあの駅でオマエに偶然会いたいぞ。
 その時はちゃんと俺のこと思い出してくれよ。
 そしてまた歌ってくれよ。

  
 

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最期の空の下
 帰り道、僕はどうしてもその場所を通らなければいけない。

 救急病院の入口の前を、レジ袋などぶら下げて通過する。そこにはいつも救急車が停まっている。救急車のドアが開いて、病人やらケガ人やらを目にすることも度々。
 患者の容態を知り、駆け付けた人たちが怒っている時もあれば、慌ただしく大声で携帯電話の向こうの人に状況を説明している時も。うなだれて下を向いているたくさんの人たちのなかには、両手を地面について嗚咽したり、壁を叩きながら号泣したりしている人もいる。
 ある時は、血まみれの担架を道路で洗っている救急隊員がいれば、裏口の狭いドアからひっそり棺桶が出てくることもある。今日は明らかに故人を迎えにきた服装の人たちがいた。でも僕は、それについていちいち驚いたりしない。眼鏡のレンズというフィルター越しのように、ブラウン管の向こうの別世界のように見えているのかもしれない。
 そんな場所を日常の一つとしてただ通過するだけの僕。今ここで、そして世界で、多くの人々が苦しみながら死んでいるのに、坦々と日常を消化する僕。だけど、昇華はできない。

 病院のゴミ捨て場の倉庫は、時折異臭を放つ。その異臭は、オヤジの入院時に散々嗅いだ糞尿や薬品の匂い。僕は、アスファルトやコンクリートの隙間から草や苔の生えている様子が好きなのだが、そのゴミ捨て場の周辺だけは草木一本生えない。余程の毒物があるのだろう。
 24時間引っ切りなしに鳴り続ける救急車の大きなサイレンにももう慣れすぎてしまった。しかし、ゴミ捨て場の悪臭とその大病院が屋上にある焼却炉で燃やしているであろう、摘出した人間の部位などが焦げる匂いだけにはいつまで経っても慣れない。吐きそうになるほどだ。

 病院は、新しい病棟が出来て立派になった(糞ヤブ医者揃いだが)。新しい病棟と古い病棟は、僕が通る道路を隔てて建っている。その道路をベッドに寝かせられたまま移動させられる、寝たきりの老人患者をよく見かける。
 晴天の青空の下にボロボロの入院患者が横たわっている光景は、何度見てもなんとも妙なシーンだ。きっと患者の老人たちにとって久しぶりの空の下だろう。僕には、その空を寝ながら見る患者たちの気持ちを理解しようとしても出来ない。ただ、病室の天井より青空の下はいいなあ、と思っているとは思えない。

 最近気づいたことがある。
 古い病棟に移されるのは、もうわずかなロウソクの火が消えそうな人ばかり。そして、棺桶が出てくるのも古い病棟からだけだ……。古い病棟へ移されることは、もう死ぬ前だからなんだろう。僕の亡き母も、臨終の1週間ほど前に別の部屋へ移された。起き上がれない、意識があるのかないのかわからない人ばかりの部屋に。

 5月15日。母の誕生日。昔は「母の日」と重なることが何度かあって、クリスマスや正月が誕生日の人みたいにやや悔しそうにしてた母の表情や言葉を憶い出す。今年、生まれて初めてカーネーションを買った。白いカーネーションは鉢植えなので高くて買えず、ピンク色の一輪を買った。
 母が最期に空の下へ出ていたのはいつだったか、思い出そうとしてもそれは憶えていない。かつてのことを考えながら、いつもの道路で老人患者のいつもの移動を見守る。あの人たちにとって最期の空の下になるであろう風景は、いったいどの様に見えるのだろうか。自分が間もなく昇って行く空に何を見るのだろうか。母のいる空に何があるのだろうか。


 時に、澄みきった青空さえもただただ切ない。
 
  
 
 
  
かさぶた
写真 188



 幼稚園に入った頃から僕は「疎外感」「劣等感」「孤独感」に支配されている。その原因などは、貧乏な家に育ったのもあるだろうけど、それ以外を箇条書きにするとこんな感じ。


◎聞いてから理解するまでに時間がかかりすぎる。
◎言葉が上手く出ない。
◎喋ることを考えている間に話が違う方向へ進む。
◎物事に対して咄嗟(とっさ)に反応できない。
◎極度の緊張しい。
◎お婆ちゃん以外は年齢問わずほとんどの女性相手に対して吃(ども)ってしまう(二十歳まではすごい赤面症だったので女性と話すのに苦労した)。
◎元々呂律(ろれつ)が回らない上に口下手だった(精神科で投薬治療を始めてからますます呂律が回らなくなった)。
◎自分が喋っている最中でも意識が飛ぶ。
◎小6になるまでちょっとしたことで泣いてばかりいた(これについては今度書きます)。
◎上記のものすべてに対して、露骨に嫌な顔をされたり、嫌な空気にさせる。
◎中学で柔道部に入部したと知った近所中に物凄く驚かれた(やはりかなりの弱虫だと思われていたんだな)。
◎母以外、爺さんも婆さんも含めて家族が近所中に汚らわしい目で見られていた。

 
 弟はこれに拍車をかけるように酷かった。自分で服を着替えられないとか、毎晩泣いていたとか、イジメの標的にされるとか。登校中にイジメの標的にされていたことがあるので、弟に何かあった場合のため、僕はいつでもそいつを斬り付けてやろうとカッターナイフを持っていた。

 血筋なのだろうか? 親父は、これまでお世話になった施設や特養では、同じく収容されている人らとほぼ誰とも口を聞かず、他の人と離れたり無言で食事をひっそり食べていたし、食べている(現在も進行中)。どこにも馴染めない人だ。昔っから飲みに行く友人は誰一人いない。かと思えば、四点歩行の杖で気に入らない人を突き飛ばしたとか……。

 あれほど「親父みたいになるな」と母から良くない教育をされ、親父を蔑(さげす)んでいたのに、今はどんどん自分が親父に似てきていることが手に取るようにわかる。
 だから去年、僕は親父のこれまでを許した反動で親父がとても可哀想で切ない存在になった。親父と特養の夏祭りに参加したり、電車賃とバス代しかないのに滋賀の特養へ行ったり、自分が食うに困っても、新しい靴やウエストポーチ、お菓子、果物を買って持って行ったり、友人の協力を得てのお墓参りの時に、おんぶしてうちのお墓まで連れて行ったりもして、手の皮がズル剥けになったり……。

 こういう言い方は苦手だが、親父と弟らを含めた「疎外感」「劣等感」「孤独感」が混ざった「負のスパイラル」がずっとある。ケガをして治ってもどんどんまた同じケガをして、いつもどこかに“かさぶた”があり出血もしているのだ。
 そのかさぶたを無理矢理ひん剥いて、また血が出たと嘆いているのが今までの自分だ。かさぶただらけでも傷跡だらけでもいいから、自分を貶(おとし)めるような行為は避けなければ! 血が出ないように痛くならないように。

 昨夜、ブログにボスがメッセージを書き込んでくださった(他の人は読めません)。真っ当なお叱りを受け、いろいろ考えて言ってくださった上に、こんな僕のことを「友達」と書いてくださった。嬉しかった。嬉しくて自分が孤独だと思い込んでいた情けなさも加わって大泣きした。
 僕は、咄嗟にボスへ電話して、ボロボロ泣きながら留守電に「ありがとうございます」と言うのが精一杯だった。



ねこぢる

※この画像は以前どこかで拾ったもの
青春
◎↑THE HIGH-LOWS↓  『青春』





 青春。実はよくわからない言葉。都合のいい時に遣われる言葉。たぶん思春期や成長期、ヤンチャ時代を指すのだろう。中学生時代、レッドビッキーズ並みに弱かった柔道部史上初めて黒帯を取るために、軍隊並みの稽古で柔道に燃え尽きたあの頃だろうか。

 警察官が中心になって教える柔道クラブに、中学の後半少しだけ通った。主に、ランニング、飛び込み前転(10人以上は軽く飛び越えてた)、腕だけの匍匐前進やエビと逆エビなどの畳訓練、腕立て伏せ200回を3セット、腹筋200回を3セット、スクワット200回を3セット、自分よりも20~50kg重い奴らを肩車しての階段昇り、打ち込み(技の稽古)、乱取り(実践練習)の乱れ打ち、寝技、練習試合などなどを2時間弱で全部こなした、たぶん県下で一番ハードな稽古。
 態度が疲れてたり怠けてたりすると竹刀(実は全然痛くない)と罵声を浴び、水を飲むのも許されなかった時代。後に体重が一番重い階級で県大会を制した奴を、若干非公式な試合(一応、中日新聞主催だったが)で首を絞めて勝ったこともある。無差別級があれば優勝できたかも(笑)。でも、あれは青春じゃない。筋肉とか付けすぎて身長が止まっただけ。あの頃は、腹の上に3人乗せても平気だったが、今やネコが1匹乗っただけで苦しい……。

 高校3年の時の球技大会だったと思う。何故かブルマを「シスター」と呼んでた我が校。
 シスター姿の女子バレーボールをネット間際で三角座りして観戦してた。隣りには同じクラスにも同じ部活にもなったことがないT野という奴がいて、僕と同じくニヤニヤしながら座ってた。友人の友人ということで言葉を交わす程度だったT野と語った。ブルマの曲線や脚がハミ出て乳が揺れ、キャーキャーはしゃぐ女子たちの若い肉体を観ながら言った。

「たぶん、俺ら、今、青春やんな?」
「そうやな……」

 さっきまで「○○さんの胸はなぜ左右が別々の方向に揺れるのだろう?」とか言ってニヤニヤしてたのに、急に二人とも黙り込んで視線が遠くなったまま、時が過ぎて行くのを感じた。時間が永遠に止まればいいのにと思った。T野はどうか知らないが、少なくとも僕はそうだった。
 ブルマが普通にあった時代に若くてよかった。今、ビーチバレーで萌えてる男性なんかは、きっと生ブルマを知らない世代じゃないだろうか。ブルマを眺めてたあの時がきっと僕の青春なんだ、と思う。


国土交通省の空中写真で昭和49年の故郷があった!
 まずはGoogle Earthで、最近と思われる故郷を見た。

↓これ。
3764951_3360109599.jpg





 次は国土交通省のHPの閲覧機能で、昔の空中写真を探せるというので必死で探した。

↓これ。
3764951_1843906649.jpg



 もう無くなってしまった故郷の家がそこにあった。
 昭和49年。僕が幼い頃の。
 かなり感激した。

 その頃すでに生まれていた人は探してみてはいかが? ちょっと使いにくいけど、日本全国ほぼすべて撮影してあるようです。
おぐらですにゃ!
 実家の近所におぐら(小倉)さんという御一家が住んでおられた。おぐらのおじいちゃんとうちのお母ちゃんとは妙に仲が良く、お母ちゃんの話し相手(相談事)におぐらのおじいちゃんがなっていてくれたようだ。

 おぐらのおじいちゃんが、うちに訪ねてくる時の第一声はいつも、

「おぐらですにゃ!」


 別にネコの鳴きまねをしていたわけではないし、「ですにゃ」はどこかの方言なんだろう。関西弁で言うと「おぐらですねんけど(誰かいますか?)」ってとこなんだろう。

 当時の我が家は、家族みんながブーブーおならをこき合うことができたのが自慢。お母ちゃんが2階の別の部屋で何かしながらおならをした時、僕の部屋がお母ちゃんのおならの振動で揺れて、
「おなら地震や!」
 と大笑いしたことがある。


 その頃、いつも夜の8時ぐらいにいつも帰ってきてたお父ちゃん。ある日、ちょうど8時くらいに玄関に人影が見えたので、てっきりお父ちゃんだと思い、玄関横にある階段を昇りながら、ドアがガラガラッと開いた瞬間に、お父ちゃんにブー!って一発かました。すると何の反応もなく、おかしいな?と思いながら振り向くと、












「おぐらですにゃ……」



 赤の他人に屁をかましてしまった小学4年生の夜。恥ずかしくてなかなか寝付けなかった、自由を求め続けた10(歳)の夜。盗んだバイクで走り出したかった。
鼻たらしの少年
 鼻水をたらしてる子どもを今では全く見なくなった。僕の幼少時代もほとんど見たことがない。


 強烈に憶えている子が1人いた。幼稚園のとき、同じ組だった堀井くん。1年中、鼻水をたらしていた。それも黄色い鼻水。
 言っちゃ悪いが、堀井くんはちょっと頭がゆるかった。身体測定のときも自分では着替えられず、僕が密かに憧れていた西田さんという女の子に手伝ってもらったり、鼻水を拭いてもらったりしていた。

 西田さんは、堀井くんの近所に住んでいたので、ひょっとしたら堀井くんの親に頼まれていたのかもしれない。それでも、献身的に堀井くんの手を引いたり、世話をしてあげている姿は幼い僕の心にキュンときた。そして、そんな堀井くんがうらやましかった。
 僕もいつしか西田さんだけに任せていては切なくて、ことあるごとに堀井くんに声をかけたり、休み時間に堀井くんを誘ったりした。西田さんに気に入られたい、という気持ちもあったかもしれない。



 小学校に入学して、堀井くんと同じクラスになった。堀井くんは、テストではほとんどいつも0点。言い方は悪いが勉強以外でもアホ過ぎたので、逆に誰も彼をいじめる子はいなかった。むしろ放置状態。
 僕はといえば、給食が終わって休み時間になると、いつも校舎や校庭を独りでうろちょろしていた。この頃から孤独が好きだったのかもしれないし、人と打ち解けることができなかったのかもしれない。
 でも、堀井くんには時々話し掛けるようにしていた。西田さんは違うクラスだったし、彼女に気に入られようとかそういうのは抜きで、彼を励ましたり、いろいろ教えてあげたりした。
「堀井くん、鼻! 鼻!」
 そう言って注意すると、自分で拭けるようにもなっていた。これは奉仕とか可哀想とかそんな気持ちではなく、なんとか勉強とかに着いていこうとして失敗ばかりする堀井くんが、当時は泣き虫だった僕の同士のように思えたからだ。



 小1の終わり頃、僕は転校することになった。先生がクラスメイト全員に、僕宛のメッセージを書くよう1冊のノートを巡回させた。そのノートを持って僕は新天地へ行った。
 滋賀県の北部へ転校してしばらく経ってから、思い出したようにそのノートを開いてみた。皆、他愛もないことや絵がズラズラと綴られていただけだった。印象の薄かった僕だったからしょうがない。何も書きようがなかったのだろう。
 だけど、堀井くんが書いてくれたのだけは強く印象に残っている。ひらがなもマトモに書けない堀井くんが、口数もほとんどない堀井くんが、誰よりもいっぱい一所懸命の文字を書いていてくれた。全部を解読するのは無理だったけど、「ありがとう」の字がいっぱい綴ってあった。
 たぶん僕が感傷的になったのは、あれが生まれて初めてだったと思う。残念ながら、母親が不注意でそのノートを捨ててしまったんだけど今でも忘れられない。



 僕は堀井くんが好きだった。ありがとう、さようなら、元気でね、たとえ独りぼっちになっても巧ましくね、がちゃんと言えなかったのを後悔している。
 堀井くん、今頃どうしているだろうか。鼻水を拭いたり注意してくれる人は見つかったかなぁ。
カリメロ
3年程前、KBS京都で昔版のカリメロの再放送をしていました。
懐かしくて食い入るように観ました……。

カリメロの学校の運動会があり、
かけっこ(100m走?)が得意なカリメロを出場させないために、
アヒル(声:肝付兼太)などの悪ガキ達があらゆる手段を使って、
カリメロが学校に来れないようにするのです。

しかし、なんとかかけっこのスタートに間に合ったカリメロ。
疲れているにもかかわらず、どんどん抜かしてゆき、やがて2位に。
そこでさっきのアヒルが足を引っ掛けて転ぶカリメロ。
アヒルは1位でゴール!
うずくまったまま動けないカリメロ。

そこでカリメロが小さく「ちくしょう…」という言葉を吐いて番組が終わりました。
『つづく』ではなく『おわり』でした。
次の日もチェックして観ましたが、違う番組になっていました。
KBS京都はひどいなぁと思いました。


以上が、2000年03月27日 08時39分54秒に書いたもの。


今、僕はこのカリメロの心境です。
 
古田くん
※これは、今年の1月1日に書いた年賀状用の文面です。


 柄にもなく最近はよく読書をする。活字媒体の仕事をしているくせに、活字を読むのが嫌いな僕なのだが。
 高校を卒業してから10年以上は、高校時代の友人・モリケンの家で大晦日と元旦を過ごしてきた。今回の大晦日は観たい格闘技の試合もないので久しぶりに「正月の実家」とも呼べる彼の家へ行った。普段の通勤で電車を利用しているが、乗っている時間は10分弱なので読書はしない。今回は1時間半くらい乗っているだろうから、あれだけ敬遠してきたリリー・フランキーの『東京タワー』を持ち込んで読書で時間を潰した。
 帰宅途中も続きを読んだのだが、“リレー”って単語が出てきた時に僕は思い出すものがあった。


 小学3年生の頃だったか、いつの間にか普通クラスに養護クラスから編入してきた男の子がいた。名前は古田くん。足が悪いだけだったから普通クラスに編入しても学力にはなんら問題はなかった。
 古田くんは両足を引きずるように歩いていた。チンバとかビッコのレベルじゃない。彼が歩いている付近は、ザッザッという激しい足音がした。

 古田くんを強烈に憶えているのは、運動会に付き物のクラス対抗全員リレーでのこと。僕は一度も彼と同じクラスになったことは結局なかったけど、リレーの順番で古田くんのいるクラスがもめたことは容易に想像できる。
 一番最初に古田くんを見た時は、彼がリレーの順番で真ん中ぐらいだったと思う。全員リレーとは皮肉なもので、どんなに足が遅い奴でも駒として使わねばならない。古田くんを真ん中に据えたそのクラスは、彼の周回遅れにより見事ベベタ(ビリ)になった。
 彼の走る姿は、お世辞にも格好いいわけではなく、たぶん下半身だけの動きを見ていたら、エイリアンのようだった。

 翌年ぐらいから、古田くんは何故かリレーのアンカーに選ばれていた。周回遅れの彼を皆で拍手で迎えるのが恒例となった。僕はその雰囲気が反吐が出そうなほどイヤだった。余興のおまけみたいに晒し者にされている彼が不憫だった。たぶん古田くんのいるクラスは、彼の意向も聞かずに、「どうせベベタになるんだから」くらいの気持ちだったんだと思う。皆に拍手される彼を想定したりした、担任教師もあざといと思う。でも、古田くんは文句も言わず、いつも走り続けた。本当なら次の人にバトンを渡す役目とかしたかったろうに。

 中学時代からだったか、古田くんがリレーのトップを走らされるようになった。明らかに最初にマズいものを出して後半に追い上げようとする意図が見えた。アンカーとかトップじゃなくて、たぶん彼は自分の好きな順番に、重責を担うことなく走りたかったろう。トップランナーになってからの彼は、拍手さえも受けることなく捨て駒状態だった。

 古田くんの走りをよく見ると、足の裏をほぼ使わずほとんど足の甲とつま先で走っていた。僕はそれをすごいと思ったので、なにかにつけて古田くんを見かけたら、彼をかまうようになっていた。古田くんもなんかニヤニヤしながら僕にチョップみたいなことをしてきた。面白い奴だった。それから卒業後の彼の行方を僕は知らない。


 僕は、古田くんみたいに重責を担わされたり晒し者にされても、あるがままを受け入れて、自分の役割を全うできる人間になりたい。彼はハンディキャップを背負っていたけど、最後まで走り切る人間だったし、それを自慢げにしたことはなかった。なんでか今、彼に拍手したい気持ちでいっぱいである。

 周回遅れでもいい。きっと彼は今もどこかで走っているんだ。そう思うとなんだか力が湧いてきた。そんな新年の決意。あけましておめでとうございます。
教室の窓から見えたもの
 僕がいた小学校は、新築住宅のラッシュで年々児童が増えて、それに伴い校舎もだんだん増やされていった。増やされるのはしょうがないのだが、それまでの間、プレハブの校舎で1年過ごしたこともある。

 思い出せる小学校の景色で、新築された鉄筋コンクリートの校舎はほぼ皆無。木造の旧校舎ばかりが思い出せる。記憶にも残らない場所を作り出すのって、浅はかな当時の日本人の手段だ。今もあまり変わらぬが。しかし、木造の校舎は階段の手すりの感触や、廊下の木目の感じまで思い出せる。
 もう旧校舎はすべて取り壊されたそうだが、本当にいいものは心から取り壊すことはできない。愚か者たちが、どんなに味も素っ気もない鉄筋コンクリートをその上に建てたとしても、その下にあった思い出だけは、僕が生きている限り、この心から消すことはできまい。


 鉄筋コンクリートの中で起こった出来事は憶えているが、その景色が思い出せない。思い出せるのは、4階の教室から見た窓の外の景色だけ。運動場と田んぼと林だけ。
 周囲がほぼ田んぼで囲まれていた学校には、よく気球が飛んできた。一度、運動場の向こうの田んぼに不時着したことがある。ぎゃーぎゃーと授業中なのにみんなで騒いだ。先生も授業を中断してそれを見ていた。

 不時着したまんまの気球。なかなか飛べず。とうとう先生は授業を再開した。みんなも飛ばない気球には次第に興味が薄れて、やがて窓の外を見る者もいなくなった。
 これってなんだかニュースや事件に似てる。あるものをないもののようにして、自分の都合だけを押し進めてゆく姿勢。僕らは鉄筋コンクリートの校舎で、ヤなことを訓練されて育てられたのだと気づく。

「あ! 飛んだ!」
 一人待ちわびていた僕が声を上げると、みんなが一斉に再び気球を見た。やがて見えなくなってゆく気球にみんなはまた元通り静かになった。絶えるわけではないものが、再び飛び立つのをずっと待っていたのはたぶん僕だけだった。気球が飛んで行った方向をずっと見ていたのはたぶん僕だけだった。


 また僕の景色に不時着する気球が見えることがあるだろう。手の届かないところからでも僕は、きっと空へ舞い上がるのをずっと願ってる。
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