【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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花は咲く
いいことないかな。
なんか好い事ないかな。

生きていればきっといいことあるさ、
と自称ポジティブな人が言う。

たったひとつの好い事のために生き続けるならば、
生き続けなければならないならば、
むしろたくさんの悪い事が全部なくなる方がいい。

でも、悪い事が何もない世の中や人生はきっと窮屈だろう。
ノーリスク、ノーリターンは退屈だろう。
ハイリスク、ロウリターン、それは希望というものだ。

希望より欲望しか要らない。
希望の象徴である花なんて要らない。
花を希望の象徴にする必要なんてない。

人生において花なんか咲かなくていいし咲かせなくていい。
人生が開花、なんて必要ない。
咲かせる必要がどこにあるというのだろう。
(人生が)美しく綺麗だから、それだけだろうか。 
美しく綺麗だけのどこがいいのかわからない。
少なくとも私の人生には要らない。

いつか花を咲かせるため?
それなら何も残さなくていいし、遺さなくていい。
命の連鎖なんかなくっていい。
花が咲きゃいいってのは、偏向教育の賜物か何かだろう。

昨年末の紅白での綾瀬はるかの歌にはジンと来たし、
メロディもいいと思う。
作詞が岩井俊二でさえなければ良かったのに。
歌詞の最後の一行があざといと感じなかったのに。


話が逸れた。
もちろん自分以外の人はこういうことを少しでも考えない方がいい。

人生を開花させることなく、させる必要などなく、
命や心の連鎖を拒み、
そんなものが何も関係ない所で私は永遠に命を閉じたい。
 
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シュート
いつか届くだろう



 本心を言うと、もうこのまま埋もれていってそのままでいいじゃないか、と思った時期も相当あった。目指していた所が虚無だとわかったし、何も見据えないで暮らし過ごすことは苦痛でしかなかった。

 まだ頸椎も精神もリハビリ中で大袈裟なことは言えない身分だけど、僕は僕を再開する。再び同じ土俵に立とうとは一切思わないが、新たな居場所を見つけて立ち上がる。

 いったい何が僕をそう思わせるのか皆目見当もつかない。このままでは生きている意味さえ無くなってしまうという強迫観念に駆られたわけでもない。

 ただ、「時間を置く」というのは大事なことだとわかった。精神的なことが人間相手から来ているものだとしたら、時間を置くことで相手が変わったり死んだりして環境が激変するからだ。かく言う僕も抱えていたことがいろいろ時間を置くことで解決しつつある。新たに抱えるものが増えた感もあるが。

 もうブログなんぞを書くことに辟易していたのもある。今じゃあ、素人だってミミズだってオケラだって毎日のようにブログを更新する、Twitterで上手いことをつぶやく。毎日なんらかを書いている人の文章は、いつのまにやらちゃんとした読み物に成長している。だが、くそつまんない。この、くそつまんなくなった僕がくそつまんないと言うのだから、こなれたブログを読むことの退屈さは相当くそつまんないのである。くそつまんないブログにポイズンなのである。

 だからって僕はブログで立ち上がったりはしない。僕はもうある程度の人生の痛みや苦しみなどの出来事を文章を書くことで消化してしまった。くそつまんないことしかもう書くことは滅多になかろう。それでも何か動き始める光明を目指そうとしているのは、頸椎のリハビリがやや順調だからかもしれない。

 とにかく僕はくそつまんないものを尻目に見ながら、重い重い腰をようやく上げる。たとえその上げた腰が悲鳴をあげようとも。


 いつか届くだろう。まずは投げてみろ、自分!
 それだってシュートだ。

 
東日本大震災
  


いま生きてる人が、いま頑張らない人生なんてあってたまるか。
 
 
 
 
 
オヤジがオムツになったこと
 オヤジがまともに歩けなくなり、車椅子生活になって約半年経つ。

 昔から余暇は昼間寝そべってテレビを観ながら眠るしか脳がない。そして「夜眠れない」とボヤくオヤジ。
 それでは寝たきりになってしまうと判断されたのだろう、オヤジはなかば強制的に車椅子で皆の居る場所に昼間は座らされている。もちろん僕より口下手なので、同じ特養の住人たちと何らコミュニケーションできない。

 8月。オヤジの下半身が全体にふくらんでいた。僕が「オムツやな」と言うと、「そうなんかな?」と答える。そして、強がりでもなんでもなく「この方が楽や」と言う。“奇人”の血を受け継いだ僕ならわかる。オヤジは、本当の本気でオムツを「トイレに行かなくて済む」楽で便利なものだと思っている。だからニオイや不快さなんて驚くほど全く気にしていない。
 それはそれでこちらの気持ちも少しは助かるのだが、車椅子な上にオムツだと余程の力持ちが揃わないと、実家にさえ連れて帰れない。

 実家は、オヤジが設計してほぼ独りで建てた唯一の宝物。僕は実家には悪い思い出しかないので滅多に近寄らないし、大嫌いだけども、オヤジの目の黒いうちは誰も住んでなくて、ボロボロでも実家をそのまま残しておいてやろうと思う。

 特養に居るくらいだから仕方ないものの、本当に老いが目に見えて激しくなってきた。殺したいほど憎かったオヤジと会うたびにつらい。オヤジには僕の病状を告白せずにいるけど、僕の方が病気で早く死んでしまうかもしれないと考えるたびに哀しい。

 
こなゆき
ゆきねこ のコピー




※これは、前回の日記の続きです。





 おばちゃんに あうために 

 じぇいあーるにのって かいさつぐちをでた。

 ゆきおこしのかぜのくうきが あられになり 

 やがて こなゆきになった。

 こなゆきは こやなぎゆき ではない。

 ゆきがふるまえの さむすぎるかぜを

 ゆきぐにのちほうでは ゆきおこしのかぜ とよぶ。

 とかいのひとは このかぜを いがいとしらない。

 このかぜのふくときが いちばんさむくなるのだ。

 どおりでさむすぎる そうおもった。




 おばちゃんとあうのは 15ねんぶり。

 きんちょうして なみだするだろうと おもっていたけど

 おばちゃんのほうは ぼくから てがみがとどいたじてんで

 かんじょうが ぴーくだったよう。

 あんがいあっさり むかえいれてくれた。




 それからは 15ねんのさいげつを うめるさぎょう。

 きがついたら 7じかんもすぎていた。

 ぼくとおなじじきに おなじかしょの 

 おなじしょうじょうのくびを

 しゅじゅつした おばちゃんは 

 こしがまがり あしもとがよたつき しらががふえて

 すっかりおばあちゃんに なって

 かんしゃくもちだった せいかくもかどがとれていたけれど

 あいかわらず ぼくのおばちゃんだった。

 いや おばちゃんであってくれた。




 かえりぎわ こなゆきがつもり すこし とけはじめていた。

 おばちゃんとぼくに つもった こなゆきも

 いやなことを ぜんぶつつみこんでくれて

 そして いやなことごと いっしょにとけはじめた。

 そんな きがした。




 ゆきがつもると ふるまえより あたたかくなる。

 ぼくはさむぞらと すっかりかわったまちなみに

 ふるえて おびえながら あるいてきたみちを

 ぽかぽかと ぬくもった きぶんで かえった。

 
 
和解への明日
 昨年末、二十代前半にHi8のビデオカメラで撮ったものを超格安でDVD化してもらった。そこに映っているのは、亡きお婆ちゃんと亡き母、そして伯母ちゃん、伯父、僕。

 ビデオカメラが壊れたおかげで再生できなくなり、約15年ぶりに亡き人らを観た。かん高いトーンのいかにも楽しげな笑い声を出す母。まだ見つかっていなかった肺癌特有の咳をしていた母。自分の方が産みの母より先に逝くとも知らず、「お婆ちゃんを映しておいてあげ」と僕に言う母。

 なんだか遥か遠い昔の、違う世界のような光景だった。あんなに大好きな人たちを上手く憶い出すことすらできず、泣き虫の僕なのに不思議と涙は出ず、イメージビデオのような映像を淡々と観ていた。



 母方の親戚と一切交流がなくなってから十数年経つ。父方の叔母が、母方の伯母ちゃんに僕のことが発端で電話をした際、「勝手に訴えるなりなんなりしておくれやす!」とブチ切れていたそうなので、一生絶縁状態を身に沁みて感じていた。母の供養もまともにしてなかったから当然といえば当然だ。

 でも、母のことを大好きだった伯母ちゃんなら、きっとこの映像を観たいだろう、と無視されてしまったり、送り返されたりするのを覚悟で、僕の現在の状態と気持ちを書いた手紙を添えてDVDを郵送した。

 昔、僕は子どもができない身体の伯母ちゃんに、息子のように溺愛してもらっていた。それにもかかわらずいろいろ原因はあるが、僕は一切音信不通の人になった。勘当、絶縁されてもしょうがない僕だった。



 昨日、伯母ちゃんからハガキで返事が来た! 盲目に近い視力の伯母ちゃんが、点字以外の文字を忘れてしまった伯母ちゃんが、懸命に書いたとすぐわかるハガキだった。昔は癇癪持ちだった伯母ちゃんだが、そこには母のような優しさが滲み出る内容が綴られていた。泣いた。

 今日、思い切って思い切って本当に思い切って伯母ちゃんに電話をかけた。十数年ぶりに聞くその声はかすれ気味だった。僕からの電話に吃驚しながらも、「元気になったらおいで」と言ってくれた。伯母ちゃんも僕と同じく頸椎を痛めて、年末に退院したばかりだそうだ。積もる話が山ほどあって、1時間ほど喋った。

 DVDのことさえもよくわからず、DVD再生機やビデオさえないと知り、電話を切ってからすぐに電気屋さんへ行った。お見舞いでもらったお金で、誰にでも使えそうなリモコンのボタンが大きく分かりやすい、6000円くらいのDVD再生機を買った。そして帰宅するなり、また伯母ちゃんに電話した。
「近々持って行くから、(DVD再生機)買うたり借りたりせんでもええで」と。

 それからまたもや馳せる思いを抑えきれず、数時間経ってから電話をした。
「あしたっ、明日行くから! 身体は大丈夫やから! なんとか行くから!」



 おかしな話だけど、このタイミングで僕はいろんな病気になってよかったって思う。互いを許す明日の再会のことを考えると、伯母ちゃんも僕も今夜は眠れそうにない。

 


WAKAI


 
みはるちゃんへ
 みはるちゃんへ。
 僕はこんな状態だから、お別れにも行けなくてごめんね。初対面のみはるちゃんの頭を撫でながら本当はこう言いたかったんだよ。

 みはるちゃん、頑張ったんだってね。すごくすごく頑張ったんだってね。みはるちゃんのパパは、僕の友だちで仲間なんだよ。同じ「釜の飯」じゃなくて、同じ漫画喫茶の飯を食ってた仲間なんだよ。そのパパのところに生まれて来てくれてありがとうね。4ヶ月だけだったけど、みはるちゃんが生まれた喜びをパパやママ、そして僕たち仲間みんなにを与えてくれてありがとうね。
 今度生まれてくることがあるなら、またパパとママのところに生まれてあげてね。頑張ったご褒美に『切手のないおくりもの』を唄ってあげたよ。これからは遠い空の向こうでパパとママを見守ってあげてね。
 会えなかったけど、ありがとう。さようなら。



125922.jpg




 みはるちゃんのパパへ。
 生きている人間は誰もが遺族だ。でも、そのうち他人から遺族と呼ばれなくなる。どんな悲しみもやがては薄らいでしまう。だから今は思いっきり泣いていいと思うぞ。大事な大事な我が子を亡くした実感がまだあまりないのかも知れないし、奥さんが泣き崩れている状態では気丈に振る舞わなければいけないのかも知れないけど、そんなに無理をせず我慢せず、悲しい時はおもっくそ泣いてあげろ。そして奥さんごとぎゅうっと抱きしめて泣いてあげろ。
 今はただキミの最愛の子どもの冥福を祈ってる。
 僕は何もしてあげられないかも知れないけれど、今度会えた時にはまた昔みたいにアホな話でもしよう。そんな状態にキミが少しでも回復してることを心から願ってるし待ってる。そして、キミの子どものことも忘れないしずっと祈ってる。

 
 
 
怖そうな人が実は優しい話
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カツラ
鳥が泣く




 梅雨、髪が鬱陶しいのもあったがスキンヘッドにした。
 すでに薄くなりつつあった前髪あたりが、洗髪中や起床時にばさっと抜けた。酷い幻聴や思い通りにならない自分に、ストレスを感じたからなのかどうかわからない。とにかく剃った。剃れば生えてくるだろうと。

 カミソリだけでは0mmの完全スキンヘッドにしようにも上手く剃れない。でも、ほぼ完璧に剃り上げて、軽いものなら頭皮にペタッとくっつくようになった。
 薄くなっていた部分は生えてこなかった。いや、生えてきたのもあるが産毛に近いチョロ毛。何度か剃ったけど結果は同じ。思いきってそのまま伸ばしてみた。

 伸ばすと、くっきり濃い部分と抜けてもう生えてきそうにない部分が明らかだった。精神系のせいなのか、脳梗塞のせいなのか、それに対応できない自分が何故にこんなにおかしいのか?というストレスなのか。極度の落ち込みや物忘れなどなのか原因が不明だった(今でもどちらが悪いのかという境界線はない)。

 ハゲたら思いきってスキンヘッド、なんて言ってたこともあるが、それが勇ましい行為なのか、こうして実際に起こってみると不明だ。なぜなら、残りの毛でもやはり有るものさえも全部なくしてしまうのには抵抗感がある。髪はクッション的な役割もするし、大袈裟にいうと「生」までもを感じる。
 だから、現役バリバリ当時の中曽根元首相の「バーコード頭」や、磯野波平の頭頂部にある1本毛さえも今は理解できる。あれは無様な最後の抵抗ではないのだ。己の威厳を保ち、「生」を感じていたいのだ。僕はスキンヘッドにするにあたって、どうせならサイドや後頭部の毛もなけりゃ手間いらずでいいのに……とさえ思った。スキンヘッドは男くさい頭ではあるが、髪の毛に対しては全面降伏した状態とさえいえる。だから満員電車などで、必死に「髪の砂漠化」を防ごうとしている頭のオジサンたちを見つけても笑ってはいけない。あの人たちは戦っているのだ。

 髪の毛もきついが、指先までの右腕全体(肩甲骨も含む)の痺れ・痛み・震えも尋常ではない。眠剤で寝ていても痛みで起きてしまうほど。原因は、首の頸骨の神経が圧迫されているからだとわかった。それがわからなかったら、たぶんずっと精神科医に「薬のせいじゃないですか?」と繰り返して叱られ続けていただろう。あれほど信頼している整骨院に見切りをつけていたかもしれない。この頸骨の圧迫部分は、手術できないこともないが、大事な神経が集中する箇所のため、「リスクが大きすぎるので痛みなどは我慢してください」と神経内科医師に言われた。我慢できようもない場合が多いが、手術が失敗して下半身不随などになるよりはマシなのかも……と自らに言い聞かせている。

 そして原因不明の頭痛。偏頭痛には中学生の頃から悩まされていたが、ここ数年は単なる頭痛が毎日起きてほぼ1日3回鎮痛剤を飲んでいた。それでも治らないので、幾度か「MRIをせねば」とmixi日記やブログに書いていた。
 MRI検査代は高いとか、大きな病院へ行くのは検死の時だけと腹をくくっていたのだが、さすがにリンパ腺が腫れ上がって顔と首の一部が変形したので、重い腰を上げて病院へ検査に行った。リンパ腫の癌だとすれば、余命を知らねばならなかったからだ。
 結局、(性病ではない方の)ヘルペスと診断された。腫れ上がった箇所でおでこに3つ、目と目の間の鼻あたりに1つ、膿が出来て潰れてえぐったような穴があき陥没したまま治る気配がないけども……。





 リンパ腫に良性もくそもない、ってその悪性を抱える友人、いや同志である鹿児島のリカさんがそう言って電話の向こうでカラ笑いしていたことがある。
 リカさんは、あらゆる箇所に腫瘍や重い病を抱え、心臓まで悪いので、何度か死にかけた。心臓が悪いせいで全身麻酔を受けられなく、リンパ腫の手術ができないため、麻酔医に何度も全身麻酔をしてくれるよう強請っている、と笑っていた。

 ある夜、リカさんが死にそうな声で今の状況を病室から伝えてきた。明らかに様子がおかしかったが、どうやら手術をしてもらえたようだった。寂しく悲しくつらいと言っていた。あんなに強気の人が……。別の日にその時のことを話すと、まるっきり憶えていなくて意識が飛んでいた状況で僕に電話をかけていた、と判明した。

「この傷と痩せ細った自分は、人様に会えるような状態ではない」
 そのようなことをリカさんは寂しそうに言ったが、僕はそんなこと気にしないから、同志として今のうちにサシで話しておかねば、みたいなことを言った。そしたら、リカさんは、僕に手紙を強請った。

 書いて送ると言ったまま右腕の痺れなどのせいで、たくさんの文字を今はちゃんと書けない、と手紙を拒んでいた僕だったが、痺れと痛みを通り越してなんとか書いた。便箋に3、4枚は書いただろうか。最後の方は同じ人物が書いたとは思えないひどい文字になっていたけど。

 しばらくして僕の携帯電話にメールが届いた。

「手紙届いたよ、ありがとう。嬉しかった。(中略)誰かが去ってく姿にほっとしてしまうなんて私はやっぱり歪んでいるのかな。」

 僕の携帯電話にそう残したままリカさんは消えた。あんなに華やかかつ波瀾万丈な人生を歩んできた人が、麻酔で意識朦朧とした時に、よりによってこんな僕に電話をかけてきてくれたことは哀しくも嬉しく光栄だったのに……。

 朦朧としながらも「念のため」といろんな連絡先を教えてもらっていたのだが、僕はまだ怖くて、結果を知りたくなくて、その後どうなったかを訊ねる手紙は書いていない。ひょっとしたら僕が電話を止められていた半月の間に何かがあったのだろう。こちらから連絡しようにも、たくさんありすぎたリカさんのすべての連絡ツールが 終 わ っ て い た 。
 あとは正気の時に教えてもらった実家の住所だけ……。

「今度は私自身が先に去ってしまってほっとしてるんだ」

 そんな感じで戯けて言いそうな気がする。僕はその後の本当の“結果”を知る勇気がなくて、今も手紙は出せないでいる。いつか心が安らいだタイミングを見て、せめてご家族が読んでくださるような内容の手紙を出そうと思っている。
 ボロ雑巾のようになっても生きていろ、だなんて言わない、言えない。でも僕は、あの、妙なくらいにお互いの心を開けた、同じ誕生日のリカさんと、いつか理想だの馬鹿話だのをタバコを燻らせながらしたい。だから、どんな状況になっていても、まだまだ無邪気なあのリカさんは生きていることにする。




 
 ともかく長くなったけど、僕の脳梗塞や頸骨の異常が見つかったのはリカさんのおかげ。でも、毛は抜け、右腕は痺れてデスクトップのカーソルさえも合わせることが難しい。おまけに剃った後の髪に多量の白髪が生えてきた……。

 これまで女性はともかく、男性は「ロマンスグレー」なんて言葉もあるから、白髪も結構いいんじゃないかと思っていた。なぜにこんなにまで忌み嫌われているのかあまり解ってなかった。実際になってみると無惨。おまけにハゲ。好きなヘアスタイルにももうたぶん出来ない。一気に年老いた。ほっぺたから首の途中までまるで熊のようにヒゲを伸ばしていたら、ヒゲにも白髪が続出。そして、鼻毛を抜いたらそれが白髪……。

 うちの母は、白髪を憎いほどまでに気にしていたが、やっと解った。染めりゃあいいさ、なんてレベルでもないし、僕は白髪を黒く染めた毛とか微妙なヅラでもすぐに見分けてしまうので、それが不自然な状態だと思ってしまう。

 抗癌剤で毛が全部抜けた母は、ドケチのオヤジに対して唯一強請ったものが、カツラだった。ボロボロの自転車を銀色にスプレーしたものでも10年くらい我慢・愛用していた母が、40万円くらいもするカツラを強請ったのだ。ドケチオヤジは驚きつつ反対しつつ、結局は母に買い与えた。奇跡というか母の執念か。

 さすがに男性用と違って女性用で40万円もするカツラは、ヅラハンターの僕でさえなかなか見分けがつきにくい物だった。その後、抜けた毛が生えてきたのだが、全部完璧に白髪だったのでひどく落ち込んでいた。僕が心残りなのは、せめて棺の中にいた母にそのカツラをかぶせてやるべきだった、ということ。バタバタしすぎてカツラのことさえ忘れていたのを後悔している。

 リカさんも母も「人前に出たくない」と言ってたのが今になって痛いほど解る。男である今の僕だってそうなんだもの。女性なんてもう混乱どころじゃないはずだ。





 病院へ通い出してから、ヘソが痛くなった。昨年から急にデベソになったのだ。臍(さい)ヘルニアだったんだけども、手術は費用10万円と入院期間が長いのが当初のネックだった。外科医師は「いつでも」と言ってくれてたけど、どうやら心臓の検査でOKが出るまでは、全身麻酔手術になるので無理っぽいし、よほどの状態になるまで放置しておき、今は神経内科と精神科、そして頸骨が少しでも楽になるように整骨院へ通うしかない。

 先日、オヤジのいる特養へ行った時、オヤジの毛を確かめたら、ハゲ具合は同じくらいでやや僕の方がマシかな、と思ったけども、オヤジの方が白髪が圧倒的に少なくて愕然とした。

 もっと愕然としたのが、オヤジは手すりが強固なベッドならともかく、椅子からはもう自力で立ち上がれなく、夏に会った時にも気になったけど、ほぼ歩けるというには程遠い状態になっていたこと……。
 
 最近の僕は調子が悪い場合、街なかで亀のように歩くのが遅い。杖をついた老人にも追い抜かれるし、松葉杖のケガ人にも追い抜かされる。老人に抜かされた時には、「あの人は、僕より先に行く(逝く)人だから」と自分に言い聞かせたが、僕よりも遅いオヤジはいったい幾つまで生きる気なのだろう……。せめてあのカツラは処分してくれればよかったのに、どこまでケチンボなんだ! それとも妻にあげた思い出の品なのか? まだたぶん実家に残っているはずだ。

 

 この老いた顔(ツラ)のスキンヘッドでヨボヨボ、医者も口ごもってしまうような50~60代並みの脳梗塞、精神科通い、統合失調症寸前、腹だけデブ、PCのタイピングやクリック、カーソルを合わせることもまともにできない、ライターとして致命的な右腕、記憶力欠如、それまでよりさらに話し下手になり、そしてすべてが遅く、のろま、馬鹿、経済力一切なし、先見の明なし、実のところ社会人として生きるには肝心なことは何もわかってない僕です。類稀な最低の最下位の「人」とさえも呼べないほどのカスです。
 そういうような自分を思い出したことを忘れるために飲んでいたお酒さえ、もう飲めなくなった。お酒の味を知っている者が、一時期はアル中並みに飲んでいた者が急にやめるのは思ってたよりつらい。
 

 いま、僕は強烈に寂しい。人生の目的を放って消えてしまいたいほどだ。
 恩人になにも出来ず、泣き嘆き塞ぎ続けるだけの毎日。
 それでも皆さんはこんな屑男を愛でてくださいますか?
 もし、愛でてくださっても、こんな僕ではなにも出来ませんよ。
 カツラが欲しいって喚くかもしれませんよ。
 
 重い病名があったからカツラを買ってもらえた母。重い病名が付いて安心した僕。これで病気でもなんでもなく、健康体でただの怠け者で単なるバカです、って言われてたら、僕は狂乱していたかもしれない。
 現在の状況において、ああ病気でよかった、だなんてほんの少しでも思うのは、捨て台詞を吐いて逃げていくチンピラ以下だよなぁ……。

 
 
 
 
過去を掘り、過去を埋める




 今日は朝から病院へ行く。これまでよりさらに詳細が判明する血液検査の結果を踏まえて、薬物治療が始まるはず。
 自己判断はいけないことだが、僕の病はパーキンソン病(or パーキンソン症候群)も併発しているはずだ。父方は脳梗塞の家系(7名中5名)だとは心得ていたが、親父も診断書に「パーキンソン」と書かれていたのを覚えている。これも遺伝が大きな要因の一つなんだからしょうがない。

 mixiの僕のプロフィールには、今こう書いてある。

◎病のためタイピングがまともにできず、新しい言葉を日々生産しています。
◎思い通りの場所をクリックできません。
◎実は、クリックもまともにできません。
◎実は、カーソルさえも見失います。
◎夜は20年くらい前の「全日本プロレス中継」、昼は「盆踊り」の幻聴がします。 (+さっきまでは両方が聴こえていた……)

 そろそろ遺文的なものを残しておかないと、って漠然といろいろ文面を考えている。ケータイに登録している人は既に最小限まで削除した。あのMRIの結果で見た僕の脳のスカスカ具合と、老人並みにキツい脳梗塞の多さを考えると、自分を保てるのは運が良くても最長であと2年くらいだと思う。

 これは悲観しているのではない。これまで同じ病になった近親者などを見た結果、客観的にそう思うのだからしょうがない。ググってもらえばわかると思うが、パーキンソンの場合は特に治る術がなく、脳梗塞に関しても進行を食い止めるしかなさそうだ。

 最初の20年ちょっとまでの僕のこと、家族のことなどを文面にて掘り返す墓掘り作業は、去年の神領団地の2つの日記でほぼ終わった、ほぼ埋めた。それを埋めるのにまた20年近く費やした。

 あとは、そこに何かの種と一緒に自分ごと埋めるばかり。そのための期間が、自分が自分でいられる時間が、最長でもあと2年くらいかな、と思っているのだ。思い残すことは多々あるけど、「未練」という名の花がある方が、いずれもっと開花するのだと思う。

 また北海道一周したかった。またモンゴルの草原に立ちたかった。いずれ鎌倉に住みたかった。うちの猫たちの最期を看取りたかった。食べられる魚釣りに行きたかった。猫たちのために広い部屋に住みたかった。マイミクのみんなに会いたかった。みんなで酒飲んでべろんべろんに酔いたかった。弟に会いたかった。

 でも、僕はそれらよりも人生の目的を果たしたい。だからまだまだ綱渡りの生活が続くだろうけど、死に損ないのくるくるぱーになっても、自分を全うしたい。

 毎日、徐々に自分の意識が消えて行く時間が多くなったけど、未練は残しても悔いと友人からの借金は残さないぬよう、できるだけあきらめない。正直、こんな状態の時には弱音を吐きたくなるんだけど、それを吐くと「負けるな」とか「頑張れ」とか言われそうなので、先々週から今日行われる診察まで我慢してきた。

 重い病は、体力だけでなく気力さえも喪失させる。あれだけ生きることに固執した母が、臨終のひと月ほど前からそうなったのでよくわかる。下手に励ましたり叱ったりした自分は馬鹿だったとさえ思う。どんなに人を救う言葉を与えてきた聖人のような人でも無理だ。「死ぬ怖さを恐れるのは、それが訪れてからでよい。いま生きている人間たちは誰も経験したことがないのだから」というような言葉をどこかで読んだことがあるが、まさにその通り。

 しかし僕は、病で自分が自分でなくなるのが怖い。できれば、自我を保ったまま、苦しんでもいいから死に絶えてしまいたい。だって、死に向かう病の苦しみってちょっとは味わいたいじゃん! それって変? 僕は、母の境地に達したいだけかもしれないけれど。

 弱音を吐くな! 悲しいこと言うな! と叱られるかもしれないけど、僕だって悲しいんだ、苦しいんだ。

  
 
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