【大阪タワー☆】
良心の呵責に苛まれ続けながら、消したい傷と残したい想い出を綴るだけのブログです。



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車窓から
涙腺がゆるい。

今日は朝5時前に起きて、また滋賀へ行った。
約1年ぶりに実家にも帰った。
滞在時間は15分ぐらいだったけど‥。

いろんな作業をこなして、帰りの車窓から流れる景色を眺めていた。
いろんなことを考えながら‥。

果てしなく続く田んぼの細道を、
バイクに乗った郵便配達員が、
マラソンをする人が、
犬の散歩をする人が、
いろんな人たちが通っていた。
田んぼは延々と続き、町までには果てしなく遠いのに、
みんなが町のどこかを目指して進んでいた。

目指す先にはきっと何かあるんだろう。
きっと理由があるんだろう。
そんなことを考えながら、不安と今日のことを思い、にじんだ景色を眺めていた。

降水確率70%の曇り空の隙間から、
太陽の光が一部の大地を照らすように降り注いでいた。
たしか伯母さんと母親が死んだ時もこんな光景を見た。
今日の光は、その時より遥かに大きかった。

とても偉い人が亡くなっただろうか。
何かを導いているのだろうか。
そんな光のような気がした。


2004年07月31日22:43
ヘビースモーカーですいません
僕はタバコを吸う。
タバコ嫌いな人には非常に申し訳ないと思ってる。
でも僕はタバコを吸う。
ヘビースモーカーだ。
吸っているのはパーラメントのメンソール。
携帯の灰皿はいつも持ち歩いている。


高校2年の5月の最終日曜日、興味本位で初めてタバコを吸った。
たいしておいしくもなく、喫煙者の友人たちよりもタバコを吸うということに慣れることがなかなかできなくて、もどかしかった。
タバコを隠しておくケースを母親に見つかって、勝手に捨てられたこともある。

二十歳の学生の頃には吸わなくなっていた。
会社員になってから少しだけ吸うのを再開したが、すぐやめた。
現在の仕事はデスクワークが多いので、どうしてもタバコを吸ってしまう。

タバコを吸う時は近くの人に一声かけるようにしている。
以前は「タバコを吸ってもいいですか?」と言っていたのだが、
そんなことを言われた人は断れないだろう。
それで今までで断ってきたのは、某ライターさんだけだ(笑)

だから今では「タバコ嫌いですか?」
と、できるだけ言うようにしている。

今でも妊婦と子供の前ではタバコは吸わない。
関係ないけど、子供の前では赤信号を渡らないことにしている。

うちの実家では誰もタバコを吸う者がいなかった。
僕も家で吸ったのは最初の1回だけだ。
だけど、母親は肺癌になった。
タバコを吸わないのに。

肺癌の原因の大半は、タバコだといわれている。
タバコを吸わずして肺癌になった母親。
肺癌が憎かった。

だから、タバコをいっぱい吸って肺癌にならずに僕は死んでやろうと思った。

だから、喫煙を再開した。
タバコなんか吸わない方がいいってことはわかっている。


2004年08月12日00:22
オリンピックの柔道の井上康生選手の名前を見たり、
ネットを徘徊していると誕生日が2月26日の人がいたりするのを見ると、
そこで私は思い出してしまうのだ。弟のことを。

以下はパソコンに眠っていた昔の日記です。

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2月26日。
毎年、この日は気分がダークになる。


私には弟がいる。

いや、「いた」と言った方がいいのかもしれない。

弟がいなくなってからもうじき3年になる。
私は一人暮らしだが、弟は父と一緒に実家に住み会社に通っていた。
友人の披露宴に出席した次の日に姿を消した。

弟の会社からの連絡でそれが発覚した。
もちろん、父は警察に捜索願いを出した。
かといって警察は積極的に探してくれるものではない。
警察に捜索願いを出しただけでは、
事件や事故で身元不明の遺体が出てきた時にしか発見できないだろう。

いなくなってから4ヶ月ぐらい後に、
弟が家賃を滞納したまま行方不明だという電話が、
東京の不動産屋からかかってきた。
そこで初めて、弟が東京に移り住んでいたことが発覚した。

それから1ヶ月後、弟から郵便が届いた。
遺書だった。

郵便には、免許証、通帳、定期預金証書、印鑑、印鑑証明など
弟には必要なものがすべて入っていた。
私への不満、父への怒り、母方の親戚への不信、父方の親戚への怨みなどを書き連ねた手紙と一緒に。

「貯金は兄さんに全部あげます。
 この手紙が届いた頃には、僕はもうこの世にいないものと思って下さい」

手紙の最後にはそう書かれていた。


出て行きたくなるような家庭、遺書に残してまで父方の親戚を怨んだ生活。
私は実家から逃避した身だから、手紙に書いてある内容を深く理解した。
そんなに怨んでいるなら、父方の親戚を殺してしまえばいいのに‥‥。
犯罪者の兄になってもいいから、父方の親戚を殺しにでも姿を現わしてほしい。



弟は小さい頃から泣き虫だった。
父が仕事から帰ってくる度に泣いていたので、いつも叱られていた。
おとなしくて、友達もあんまりいなかった。
学生になってからは友達もできたようだが。
弟がいなくなった部屋に残された、友人たちとカラオケで騒いでる写真を見て安心した。

弟の友人たちに尋ねれば、ひょっとしたら誰かが居所を知っているかもしれない。
そう思って何人かの方に電話してみたが、結局あきらめた。

お前が探してほしくないのなら、探さないでいてやろう。



物心ついた頃から、兄弟ゲンカをしなくなった。
弟とあんまりしゃべらなくなった。
私が中2の頃にボロカスに蹴り飛ばして叱った頃からだ。

気難しい弟だった。
外ではおとなしいくせに、家庭ではすぐにキレる奴だった。
弟は高校生の頃、「死んでくる」と言って家を出てしまい、
私は必死で川や湖の方を探した。
弟は、電車に飛び込もうと思ったらしいがやめて帰ってきた。

弟は一度、父を殴った。
私は、父の父(祖父)を先に何度か殴っていたが、
父を殴ったことがなかったので、先を越された気分だった。

私には理解できる。
「死んでくる」と言って家を出たことも、父を殴ったことも。
本当に本当に肩身が狭く、つらい家庭だったね。
すべては父と父方の親戚のせいだと思っているんだろ?
私もそう思っている。
どんなに年齢を重ねたって、父と父方の親戚を許しはしない。
私もたぶんお前も、お母さんを殺したのは父と父方の親戚だと思っている。


お母さんが癌で死んでから、家族の夕食はしばらく私が作っていた。
おいしいものを作った時は残さず食べてくれてうれしかったよ。
逆に食事を残された時は、悲しくなったけど。
私が一人暮らしを始めた頃から、コンビニ弁当ばっかり食べていた弟よ。
たまに実家に帰った時は食事を作る時もあったけど、結局作らなくなってしまってすまない。
お母さんの代わりに食事を作ってあげられなくなってすまなかった。

私の誕生日の時に、初めてプレゼントをくれたときはうれしかったよ。
お母さんが死んでからも、お母さんが買ってくれた服を着続けていた弟よ。
私があげたお下がりの服を着てくれた時はうれしかったよ。
お前の誕生日に靴を買ってきたら、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言った弟よ。

抑圧された家庭で、楽しいことは数えるほどだったね。
一緒にファミコンをしていたことがお前との唯一楽しい想い出。
あとは、父がいない時に、お母さんと3人で笑いあったりしたことぐらいかな。



私が死んでしまうまでに、いつか会えると信じている。
だから弟よ。お前を探したりはしない。
どんな人間になっていたって、お前を責めたりはしない。
どこかで生きていてくれればそれでいい。


康生(ヤスオ)よ。誕生日おめでとう。
これからも何度も2月26日はやってくるだろう。
そのたびに俺は、誕生日おめでとうおめでとうと心から願っている。



2002年02月26日
おふくろの味
ボクにとって、おふくろの味はなんだろう。
豚汁(ぶたじる)、ハンバーグ、白菜の浅漬け‥‥。
いろいろあるが、一番印象深いのが『酢牡蠣』だ。

肺癌との闘病中に滋賀の大津の実家に帰っていた母親が、
作ってくれた酢牡蠣だ。
いつもは大阪からボクが訪れても、ごはんを作ってくれるのはおばちゃんだった。
だが、その日は母の体調がよかったのか
「お前の好きな酢牡蠣を作ったるわ」と言った。

ウチのオカンの酢牡蠣は大根おろしをたっぷり使う。
まずは大根おろしで牡蠣を洗う。
みるみるうちに大根おろしが真っ黒になる。
そして残しておいた綺麗なたっぷりの大根おろしに大量の酢と少しの醤油を入れる。
それがとても酸っぱい。なのに旨い。

末期の癌患者が大量の大根おろしを擦るのは大変だったろう。
気が向いて作ってくれたんだろうけど、
ボクにとってはこれが最後のおふくろの味になった。
あの味を再現しようとしても、どうしてもできないのが不思議だ。
すごく単純な料理なのに‥‥。
とにかく酢牡蠣は、立派な料理だ。

オカンが亡くなってから、実家での夕食はボクが作るようになった。
オヤジと弟の分だ。
男ばかりなので誰も料理をしようとしない。
だからボクが作った。
なかでも得意だったのがハヤシライス。
食が細くて好き嫌いの多い弟が何杯もおかわりしてくれた。
たぶん、弟のとってはハヤシライスが兄の味だったろう。

今はもうあの酢牡蠣を食べることもできないし、
ハヤシライスを弟に食べさすこともできない。


2004年09月19日19:58
がんばれ
頑張っている人に「頑張れ!」って言うほど酷なことはないと思う。
ジミー大西じゃないけど、「お前も頑張れよ!」って言いたくなる。

末期癌で闘病中だった母には、
一度も「頑張れ」という言葉をかけたことがなかった。
いや、かけられなかった。
あれ以上頑張っている人はいなかったから…。
そして、逆に励まされたような気がする。


「明けない夜はない」、「止まない雨はない」と人はよく言うけれど、
夜が明けても、また必ず夜が来るし、
雨が止んでも、またいずれ雨が降る。

ボクたちは、太陽と青空を求めて彷徨い続ける。


2004年10月20日00:31
寿がきやの思い出
死んだお母ちゃんと、遺書を残して行方不明のままの弟とよく行った。
うちのキーボードでは「すがきや」と打ったら、
「寿がきや」て変換されるようになってる。
僕の中では「Sugakiya」でも「スガキヤ」でも「すがきや」でもあらへん。
「寿がきや」なんや。
僕の思い出は「寿がきや」に残されてるんや。

小学2年生の時に滋賀県の北の方の雪が多いトコに引っ越した。
国鉄の駅まで子供の足で歩いたら1時間はかかる。
ましてや、雪道なんかの時はもう大変や。
バスなんか滅多に来うへん。
自転車に乗れへんお母ちゃんの袖をつかんで、
駅前の平和堂までよう歩いた。

平和堂の一番上の階に行くと、食堂街があったんや。
お母ちゃんは
「今日はレストランでお前の好きなハンバーグ食べよか?」
って、よう聞いてきたけど、僕は
「寿がきやのラーメン食べたいわ」
って言うた。
レストランのハンバーグは高いもん。
お母ちゃんの財布の中身を気にしてたのもあったけど、
ホンマに寿がきやの方がよかったんやで。お母ちゃん。
偏食やった弟も、寿がきやのラーメン好きやった。

カウンターの席に座ったら、他のお客さんがうまそうにラーメン食べてる。
「あ! あの人は肉入りラーメンや。金持ちやな」
とか思うて、1杯180円もせーへんぐらいのラーメン注文した。
ラーメン待ってる間は腹が減ってたさかいに、
もう食べてるお客さんをうらやましそうに見てた。
ラーメンがきたら、鼻水たらして一所懸命食べた。
寒い道を歩いてきたさかいに、ラーメン食べたらめちゃくちゃ温もった。
汁まで全部飲んだら、お母ちゃんが
「ラーメン好きやにゃなぁ」て笑ろうた。
お母ちゃんは店員さんに小さな器をもろうて、
弟に分けて食べさせてた。
弟が食べ終わったら、最後にお母ちゃんが汁まで全部飲み干した。
お母ちゃん、うどん好きやから、
寿がきやのラーメンの汁もきっと好きなんやと思うた。
帰り際に、店でソフトクリーム買うてもろうた。
「あんたら寒いのにようそんなつべたいもん食べるなぁ」
て、僕ら兄弟にお母ちゃんが飽きれて言うてた。
「ソフトクリームはおいしいからエエんや」
て、僕はワケのわからん言い訳してた。
温まった僕らは家まで雪道をほくほくで帰った。
貧乏やったけど幸せな時間やった。

今日は一人で、ジャスコにある寿がきやに行った。
タンタン麺390円やらシーフードラーメン390円やら
見たことないメニューがあったけど、
僕は迷わず「肉入りラーメン」を注文した。
幼いの頃の自分がきっとうらやましがるやろな、と思うて。

おなじみの先割れスプーンは相変わらず食べにくいから端に除けといた。
そんなに特別うもうない。
もっとうまいラーメン屋ならいっぱい知ってる。
でも、また食べたなるんはなんでやろ?
そして、汁とはもう呼ばなくなったスープを全部飲み干した。

僕は熱いものを食べると、涙と鼻水をたらす体質やけど、
今日は鼻水だけが出んかったと思うんは、きっと気のせいや。


2004年12月10日14:41

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アイデンティティ
アイデンティティというものが何かと問われたら、
アイデンティティを日本語に訳せと言われたら、
とても困る。

でも、僕にもアイデンティティらしきものはある。
どこかにも書いたけど、
僕のアイデンティティは『婆』なんです。

そう。ババアの婆。
母方の好きなお婆ちゃん、父方の嫌いなお婆。
両方を見て育ってきた。

父方のお婆がどれくらい嫌いかというと、
お婆のお通夜・葬式を弟がトンズラかましてずっと逃げたくらい。
僕は出席したけど、棺桶に爆竹入れたかったぐらい。今はしなくてよかったと思うが。

母方のお婆ちゃんは好きだった。
人間くさくて。
良いところばかりじゃなく、微妙に悪いところも好きだった。
弟はお婆ちゃんの葬式には出た。

弟は、お婆ちゃんでも理解できる会話ができなかった。
僕はそのことを再三、弟に注意した。
注意する一方、僕は年寄りにも理解できる会話を目指した。

お婆ちゃんは、どれだけ多くの人に噛み砕いて
言葉を発することが大切か教えてくれた。
年寄り用の言葉じゃなく、万人に通じる言葉遣い。
今の仕事に通じているものがある。

最近はオヤジがボケてきたので、言葉の限界を感じるが……。


2005年01月23日22:17
徳サン
 本日はどうやらホワイトデーというものらしくて、仕事場のボスが女子メンバーに「お返し」を渡しておりました。
 僕はといえば、バレンタインデーとやらにチョコレートをもらった際に、「お返しはいつになるかわからへんで!」と言っておいたので「お返し」を渡しておりません。先月からの予想通り、お金がない!からであります。
 まあ、そのうち金銭的に余裕が出てくればお返しするでしょう。30年分くらいまとめてな! 30年分のマシュマロをたっぷり食べるがいい。女子たちよ。

 ホワイトデーで思い出すのは、就職して社会人として初めて迎えた3月14日。
 僕は営業部に配属されていたんだけど、うちの部署によく出入りしておられたタクシー運転手を思い出す。徳サンと呼ばれたそのオッチャンは、いつもデカイ声でガナって、うちの部署のトップ(次長)を呼び捨てにしたり、ヘラヘラと女性社員に話し掛けたりしてダーティーなイメージだった。
 ホワイトデーに僕を呼びつけた徳サンは言った。

「○○(僕の名前)君、チョコのお返しせんなあかんから、ちょっと阪急(百貨店)行ってパンティー買うてきて!」

 唖然とした僕だったが、渋々、当時の得意先であった阪急百貨店の下着売り場(女性用)へ突入した。後にも先にも、単独で女性下着売り場にノコノコと入ったのはあの時だけだ……。どういう柄のものを選んだのかは恥ずかしくて憶えていない。

 その頃(会社員の時)は、社員寮として会社近くの大きなマンションに住んでいたのだが、末期癌の母が入院するようになってからは、見舞いのためほぼ毎日のように実家へ帰るようになった。徳サンは、僕に言った。

「なんかあったり、終電逃した時はいつでもワシを呼んでくれ。車とばすから。お金なんか要らへんで!」

 僕の実家までタクシーで帰ろうとしたら最低でも5万円以上はかかる。結局、この言葉に甘えることは一度もなかったけど、どんなに嬉しかったことか。母をもうすぐ亡くさねばならぬのに、ここに強い味方がいるってわかっただけでも本当に有り難かった。
 もちろん職場の仲間もみんな味方をしてくれたので、いつも僕は母の入院先へ通うための電車の中で、真っ暗な車窓を眺めながら人目もはばからず、声も出さず、滝のように涙だけを流していた。スーツを着た大男が涙する様子はさぞ気味が悪かったろう。とにかく嬉しい気持ちと、遠方の地で母と最期を迎えるために退社して仲間と別れなければならない辛い気持ちとが交錯して泣いていたのだ。

 僕が退社して数年後に徳サンは慢性的な心臓の病で亡くなったと聞いた。僕はその病のことさえ知らなかった……。ありがとうもさようならも言えなくてごめんなさい、徳サン。あなたのこととあなたの言葉は忘れません。パンティーのことも。
226
今年も226がまもなくやってくる。

実はもう弟とは一生会えないと思っている。

だから2月26日は、鎮魂歌を唄う日でもある。

弟よ。

消えたお前が憎らしく思える時もある。

お前はもう母さんのところへ行っているのか。逝っているのか。

ずるいぞ。

子供の頃、母さんが「私が死んだらどうする?」って聞いてきた時、

お前と二人で「僕も母さんと一緒に死ぬ」って答えたじゃないか。

ずるいぞ。ずるいぞ。

俺はお前と母さんを背負って生き抜かねばならないじゃないか!

死に損ないのオヤジも背負って生きていかねばしょうがないじゃないか!

俺にも選択権をくれよ。

いつからかお前を腫れ物扱いしたことを後悔している。

お前は俺以上の精神薄弱者だった。

ダメな兄で悪かったな。

ダメな兄には、ダメな弟しかできないものなんだな。

お前はダメ人間だ。

誕生日おめでとう。


2005年02月25日21:53
echo(エコー)
3月3日は、母方のお婆ちゃんの誕生日だった。
もし生きていれば100歳過ぎだったろう。

お婆ちゃんはタバコが好きだった。
いつも吸っていたのがecho。
「12(歳)の頃から吸ってたわ」と得意げに語るお婆ちゃんを、
母親が苦笑いしながら聞いていた。
昔は、喫煙者の女性の大半が売春婦だと決めつけられていたみたい。

昨日、安土で偶然echoを売っている自販機を見つけた。
迷わず購入した。

そういえば、お婆ちゃんの誕生日に、
タバコが体に悪いと知らずに、大量のechoをプレゼントしたっけ。

「こんな陰気なところじゃ、タバコでもふかしたいなぁ」
って、老人ホームに入ったお婆ちゃんは言ってたっけ。

脳硬塞で意識不明になって、余命わずかな時に見舞いに行った。
息をするだけで全く動かないお婆ちゃん。
鼻から通した痰を吸い取る管を抜く時だけ、苦痛の表情を見せた。
僕は、お婆ちゃんの手を握りながら大粒の涙を流した。
お婆ちゃんという存在を失うことへの悲しさから出た涙だ。

脳硬塞になる前、お婆ちゃんはすでにボケていたが、
何度も僕に聞いた。
「キミコ(母親のあだ名)は元気か?」
僕は答えられなかった。
もうすでに母親は肺癌で死んでいたから。

お婆ちゃんが死んだ夜は満月だった。
母親と同じだ。

僕は、お婆ちゃんの棺にechoとマッチを入れた。
火葬場の煙を見上げながら、
お婆ちゃんがタバコを吸っているんだなぁ、と思った。

誕生日が3月3日なのは、養女だから正確な誕生日がわからなくて、
キリのいい3月3日にした、とお婆ちゃんに聞いたことがある。

僕が今、吸っているechoの煙、
大空でお婆ちゃんの煙と混ざりあっているだろうか。


2005年03月05日14:52

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