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【大阪タワー☆忘れたい人】
良心の呵責に苛まれ続けるブログです。



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若干危篤
 父がまた肺炎を起こして危篤状態らしい。
 危篤に重いも軽いもないはずなのだけど、医師や看護師によれば「安心してください。息してます」云々とのこと。
 病院はいまインフルエンザ警報により面会禁止なのだが、担当医の説明とやらを受けに行かねばならない。少しでも会えれば励ましの言葉の一つも零せるのにどうやら無理っぽい。父よ、どうか今回も乗り越えてください。

 かと思えば父方の叔父が僕に面倒なことを押し付けてくるので厄介すぎて爆発しそうだ。そもそもああいう人たちは統失とか双極性障害とか気合いで治ると考えている馬鹿者である。というより、精神疾患のことを全く知らない。だから僕を理解しない。したくもないだろうけど、せめて気を遣ってほしい。あなた方を殺すくらいの怨念と覚悟を持った数十年間があった、と伝えたいところだがいま伝えてもしょうがないので、僕がどれくらい恐ろしい人間であるかくらいはいつかきっと解らせてあげたい。
 とにかく今は新入り猫がいろんな邪魔や挑発などをして癒してくれるので助かる。ありがとう猫。
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青空
今日は何年ぶりかで親父が(小さくだけど)笑った。
僕はびっくりして、自分がいったい何を言ったのかド忘れしてしまった。

一番危ない時と比べてかなり回復した様子で、左側に眼を動かすこともできるようになっていた。
ようやく今の窓側のベッドから左上にある空が見えたようだ。
親父が久しぶりに見た空が青空で良かった。 
 
 
峠越え
親父は、今回の山場をどうにか越えたみたいです。
心配してくださった皆さんどうもありがとうございます。

こういうこと(誤嚥性肺炎)がまた何度も起こるらしいですけど、とりあえず喜んでおきます。

「山場」じゃなくて「峠」じゃなかろうかと思うんですけど、
担当医がそう言ってたからまあそれでいいです。
 
父危篤
父危篤状態。
この1週間が山場。

負けるなオヤジ。
俺も負けへんから。
擦れた誓い



 40℃の高熱と誤嚥性肺炎でオヤジが緊急入院してから七日経った。
 今は平熱だけど、まだまだの状態。

 酸素や栄養、点滴などを鼻に入れた管から摂取してるのに外そうとする。意識的にも無意識的にもヨタヨタと暴れるらしい。

 昨日、病室へ行ったら、両手にスポンジみたいな手袋をはめられ両手拘束されていた。オヤジは僕の手を使える右手で思いっきり握るのが好きなのにそれができない。
 僕はオヤジのおでこに手を置いたり撫でたりしながら言った。

「まだ死なんといてや」

 オヤジは黙ったままだった。テレビも観ず、友人どころか職員さん以外に話し相手もおらず、なんの楽しみもなく、ただ食事を待って、ただ寝ているだけの生活。“もう死んでしまった方がいいんや”という表情をしていた。

「お父さんが死んでしもたら、僕もう独りぼっちになるんやで」

 目尻にうっすらと涙を浮かべながらオヤジは擦れた声で言った。

「わかった。……がんばる」

 本当はもうがんばらなくていいんやで、と言えるような状況になりたい。だからオヤジにそんなこと言わせてしまって悔しくて悲しかった。

 
 もう狂うほどがんばってきたのに、“がんばってや”なんてことも言ってしまってごめんやでお父さん。
 弟はお父さんを許せぬ、とどこかへ逝ってしもたけど、小学生の頃に弟と「(お父さんを)殺そうか?」って相談もしたけど、僕はもうとっくの昔にお父さんを許してるんやで。

 だから治ってぇや、お父さん。  
 また琵琶湖、見に行こうや。
 
 
希望を託した場所がある
 昨日、姫路へ行った。

 土曜の病院に在勤しているリハビリスタッフは下手だし、いっそ宛てもなく電車に乗ろうかと。普段、東の方面しか行くことがないので、たまには西へ向かってみようかと。そんなことを考えながら、決して安くはない切符を買ってJRの電車に乗り込んだ。

 新快速に乗って居眠りしてたら、意外と早く終点の姫路に到着してしまった。電車で行ったのは約10年ぶりくらいだろうか。最後に電車で姫路に行ったのは、仕事の下見で川に転落して、右足首と左膝の靭帯を断裂したとき以来。人生で初めて松葉杖をついたとき以来。

 早速、プラットホームにある名物「駅そば」を食べた。たまに遊びに行ってた頃は、毎回必ず駅そばを3杯食べたもんだ。でも、店内に「阪神百貨店のフードコートにも出店中」という掲示があったので、なんだか3杯食べる熱が冷めてしまい2杯で止めておいた。

駅そば



 食べ終わって、ふと電車の時刻表を見ると、「岡山」という文字が目に飛び込んできた。岡山へは姫路から電車で1時間くらい。そこからちょっとの時間で倉敷にも行ける。

姫路駅


 
 倉敷は、末期の肺ガンだった母と懸命に過ごした場所。大事なものを全部捨て移り住み、大事なものを全部賭けて過ごした場所。好転した母の具合を見て、ひょっとして治るんじゃないか、仕事でも探そうか、とそのまま此所に住んで一生を母の看病に費やして過ごそうとした場所。

 その場所がこの姫路からたった1時間ちょっと向こうの世界にあるんだ、と気づいたとき、どうしても命懸けで過ごしたあの場所へ行きたい衝動に駆られた。きっとそこにはもう一つの僕の未来があるかもしれないからだ。
 
 母の死という形で僕の大博打は敗れたけれど、それといって大きな後悔はない。ただ、生きたかった場所に行きたかっただけだ。でも、結局それはやめた。惨めな思いをこれ以上したくない、というわけではなく、あの場所があるというだけで僕はもう少しだけ頑張れそうな気がしたからだ。

 だから、一途な将来を信じて辛苦のみに塗れた思い出の地を味わうことは、もうちょっと先まで心に仕舞っておく。かつて、温もりの時代を生きた神領団地へ行ったことはあるけれど、あれは母の供養と鎮魂のため。今回、いろいろ思いが狭窄したのとは全く違う。

 観照的なタイムスリップなんかじゃなく、1時間ちょっと向こうの世界には、まだまだ踏ん張って何もかもを張って生き続ける僕と「僕が希望を託した場所」がきっとまだいるし、きっとまだある。そうわかっただけで今は十分だ。
 
   
チクワの人
 チクワといってもピンからキリまである。おでんのチクワなんかは主役級だし、以前にマイミクさんから頂いたヤマサのチクワなんてすごく上等な味がした。我が家というより亡き母の定番料理に、薄く輪切りにしたチクワと卵を炒めたものがあった。他でもそうかも知れないが、チクワなんてのは5本100円くらいで売っている、穴にキュウリやチーズを詰めるか、おでん以外にはあまり使いようのない具材だという認識があった。

 先々週、オヤジがペースメーカーの電池の交換手術をして入院したため、病院から近い空き家である実家に一泊した。約17年ぶり。カエルたちの鳴き声があちこちから聞こえる中、誰もいないはずの実家に明かりが灯ったからだろう、近所から監視されているようなザワつきを感じて居心地悪くなかなか寝付けなかった。

 住宅街は昔以上に静かだった。昔は、学習塾などから帰宅すると、家に近づいただけでうちの両親の怒鳴り声が近所中に響いていた。恥ずかしかった。僕は家に戻るなり部屋に鍵をかけ、テレビを大音量にしたり、耳栓をしたりして毎夜行われる大喧嘩をしのいだ。たまに弟が母の助っ人として参戦してオヤジをしばいたこともあった。

 幼少の頃からオヤジには苦しめられた。特に母なんかはストレスの塊のようになっていた。全部オヤジが悪い。それが母と子の共通の意見だった。親戚の家に家族で泊まった時は、オヤジのイビキがうるさすぎて、まだ小さかった僕たち兄弟は眠れずに困って、僕が「コイツ(オヤジ)殺そうか?」と訊いたら、弟が大きくうなずいたこともあった。

 ある朝、洗面所で歯を磨いていると、母がオヤジと僕と弟用の弁当を作っていた。自分の弁当箱をのぞくと、大きなソーセージや玉子焼きなど多彩なレパートリーのおかずがいっぱいでお昼が楽しみだった。ふと、弁当箱に蓋をしたままのオヤジの弁当箱を開けると、日の丸弁当の片隅に斜めに切っただけのチクワだけがおかずとして入っていた。前の晩の復讐をオカンは弁当でしていたのだ。僕は見なかったことにして弁当箱の蓋を閉めた。

 あれだけのおかずでよく持ちこたえたものだ。オトンの会社は有名企業だったけど、万年ヒラで肉体労働ばかりだった。寄り道を一切しないで帰宅しても、よその家庭のお父さんと違って遅い帰宅だった。作業着は汗だくでドロドロに汚れ、風呂に入ると汚れや垢が浮きまくりだったので、いつしか僕たち兄弟の後にオヤジが入るルールになっていた。

 僕はその何年か後にニッカポッカに地下足袋を履き、バールと金槌を持った解体工として肉体労働をしたので、あの頃のオヤジを思うと一番風呂に入れるべきだった、と悔いた。年齢を重ねて角質層がボロボロ取れる現在も風呂に入って垢が浮く湯舟を見てはまた悔いる日々だ。


 結局、オヤジの入院中は実家には一泊しかしなかった。先週末まで入院延長になっていたオヤジの朝食に間に合わせるため、朝4時に起きてシャワーを浴び、JR大阪駅5:55発の電車に乗り、駅からタクシーで駆け付けて、夕食が終わったら今度はタクシーに乗らず、駅まで徒歩50分ほどかけて帰宅した。

 食事の面倒は大変だった。特に手術の翌日は、斜め上を向いてポカーンとしたオヤジは食べさせないと食べてくれなかった。自力で食べられるようになっても、僕に「こぼすな」「一気に頬張りすぎ」「噛め」などと、食事の躾には厳しかったオヤジと逆転現象が起こっていた。「あんなに食事には散々厳しかったくせに」と言えば、オヤジは「そうやな……」としか言わなかった。

 母が生きていたらどんなに良かったろうと考えると、オヤジを憎みに憎んで遺書を残して行方不明になっている弟についても考えてしまい悲しくなった。オヤジのダメさが母を殺したようなものだときっとまだ思っているだろう。僕も同じくそう思うけども、今はもう憎みに憎んでいたオヤジはいない。汗水たらしてチクワ食って頑張ってたオヤジの残骸しか残っていない。

 オヤジももう弟のことはあきらめたようで何も言わなくなった。退院が決まった時に「施設(特養)に帰れるで!」と言った父方の鬼叔母の言葉を遮って、「ワシはここの方がええ」と言ったオヤジ。「ここに居る方がオサムがようけ来てくれるから」と言ったオヤジ。弟をあきらめた矛先は僕に向いたのだけど、期待に応えられるかどうかまだようわからへん。平和な家庭を築くのに失敗したけど、チクワ食って僕たちを育てたオヤジのことは感謝して誇りに思っている。そう思えるってことは、オヤジの思いはやっと結実したのかもしれない。願いは叶う、思いは届いたのかもしれない。

 今度、特養に行く時は、好物のニッキ飴をこっそり持って行くから、周りの人ともうちょっと喋るようにして元気に待っててよ、チクワの人。今は本当にありがとうって思ってるよ、おとーさん。2011年、父の日に添えて。
 
何も言えなくて……冬
 最近、体調が悪くて寝たきり状態になってた。
 今日は意を決して約2ヶ月ぶりに親父が居る特養へ行った。最低1ヶ月に一度は行っておかないと父方の親戚に怒られるから、というのもあるが。親父には「しんどくてしばらく来れなかった」と詫びた。

 1月の雪積もる中で行ったとき、親父に「今何月かわかる?」と訊いてみたら、「5月…」という回答だったのでまたさらに認知症が進んだか、と嘆いていたけど、今日はしっかり「3月や…」と答えてくれた。

 脳梗塞で脚も弱って車椅子生活なのに、
「この病気はいつになったら治るんやろう?」と訊かれて僕は黙ってしまった。
「これ以上悪くならない限り、一生そのままや」なんてとてもじゃないが言えなかった。そう考えると胸が苦しくなって30分ほどの短い滞在時間で僕は帰ってきてしまった。

 いつも帰り際に交わす親父との握手。今日はお互いに強く握りしめた。不自由でなんの楽しみもなく生きているだけの親父をなんでもいいから喜ばせたい気持ちでいっぱいになった。かつての怨恨だとか出て行った弟のこととかを超えて、なんだかんだ言いながらも親父は僕の心の支えの一つになってくれている。生きていてくれてありがとう。

 
弟を葬る
 弟は、11年前に元同僚の披露宴に参加した翌日、父にも僕にも友人にも会社にも何も語らず残さず失踪した。東京都中野区で3ヶ月ほど生活した痕跡を残し、僕宛に印鑑と定期預金、免許証などあらゆる必要物と一緒に遺書を送りつけてきた。近所や同級生、親戚、父への幼少からの思いを恨み辛みとして綴ってあった。

 普通、失踪届けから7年経つと失踪宣告できるのだが、色々な事に揉みくちゃとなった僕はそれを放置していた。しかし、父が老いてきた事もあり、父方の叔父からの忠告を受けて失踪宣告手続きをする決心をした。絶対に必要だと思っていた弁護士も使わずに済むと教えられたので。


 7月5日(月)。実家がある市の役所へ行き、弟の戸籍謄本と住民票をもらい、その足で警察署へ失踪届けの証明書のようなものをもらった。警察官は、ため口以下の対応。まるで犯罪者扱い。
 それから家庭裁判所へ行き、失踪宣告の手続き用紙に凡例を参考にしながら記入。普段、文字を書き慣れてない僕としては上手く書けたと思う。

 8月6日(金)。別の家庭裁判所に行き、調査員に証拠材料や弟の性格から生い立ちなどを2時間たっぷり質問攻めされた。弟に死んでしまえとばかりに戸籍上死亡させるのが目的だった。しかし、最後に調査員が弟さんをどうしたいか?と問うてきた時に、自分の意表を突いて「会いたいです……」という言葉を涙声で漏らした。

 帰り際、母の遺言通りに母方のお墓に眠る母に報告した。街なかは、琵琶湖花火大会の見物客でごった返していた。世間がわいわいと楽しんでいる最中に僕はこんなことをしているなんて、まるで自分の生き方の不器用さを見ているようで、花火は虚しく夜空を照らし、ドンドン!という爆音が僕の心臓をいちいち揺さぶった。

 弟の事が成立するまで半年から1年はかかるそうだ。11年の歳月を経て、いま僕は見えない弟へ揺さぶりをかけている。本当ならば本当に会いたいんだ。誰の人生を恨む事なく。



◎松山千春「凡庸」


だから明日ボクはバナナを持って行く
 昨日は母方の伯母の家に寄ってから、オヤジの居る特別養護老人ホームで納涼祭へ行った。屋台が出たり太鼓叩きがあったり、少し早いが盆踊りなどがあった。

 どこの誰よりも早く到着してしまった汗だくのボクは、久しぶりにオヤジとこってり歓談できた。近隣の施設で死亡者まで出ている昨今、O157をはじめ新型インフルエンザなどにヒステリックなまでになっている施設は、風邪などの病を持つ人の入館拒否や消毒の徹底と食べ物の持ち込みは禁止されている。でも、一時外出させて外で食べてくるのは自由だ。

 オヤジと車椅子を運ぶような手立てのないボクにはどうしようもない。クルマがあったって車中に入れるのも大変だ。だからといって車椅子ごとオヤジを運べるクルマを貸してはもらえない。

 今回の納涼祭の設定の不備とは言わないが、入居者は入居者用の食事が用意されていて、ボクのような来館者は屋台で引換券を出して食べ物をもらうシステムだった。食べても良さそうなパッケージングされたゼリーやジュースなどをこっそり与えていたが、屋台の食事を楽しみにしていたのであろうオヤジはずっと何かもの足りなさそうだった。

 納涼祭も終わってオヤジに挨拶してからタクシーを呼んだ。19時以降はバスがないのだ。タクシーを待っている間がもったいないので再びオヤジの居た場所に戻ったら、オヤジがややびっくりしていた。別れ際、「今度来る時は、こっそりバナナ持ってくるからな」とボクがささやいたら、オヤジは口元は笑顔だったものの、涙目になって今にも泣き出しそうな声で「うん」と返事した。昔、鬼のように怖かったあのオヤジが。

 帰りのタクシー内で、運転手に話題を振られたボクが涙声だったので運転手は黙ってくれた。昔、あんなにも食いしん坊で太っていたオヤジだから、施設への提出書類に「満腹感を与えてやってください」と要望を出していたけどオヤジの望むような食事ではないんだろう。

 だから明日ボクはバナナを持ってオヤジの所へ行く。好物のバナナを。1ヶ月に1、2回しか行けない状況の中、施設の方々やオヤジにも驚かれようとも、不謹慎だと言われようとも。

 
 
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